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第3回会合 2001年6月30日エーデ

プログラム

テーマ: 

 

オランダと日本における「歴史教育」の比較考察−−−戦後日本の歴史教育の問題、オランダの歴史教育から学ぶこと
リヒテルズ直子 ハーグ市在

1.    はじめに

まず、本日の私のテーマ「オランダと日本における「歴史教育」の比較の話に入る前に、まず、私自身の経歴を少し紹介させてください。

    1970年代から80年代にかけて、私は日本の大学で教育学を6年間、社会学を5年間勉強しました。その間二年間、社会学のフィールド調査のためにマレーシアにも滞在しました。1983年から私は夫とともに、アフリカおよび南アメリカの諸国で暮らしました。ボリヴィアではラパスのサンアンドレス大学で(社会学の)講義をいたしました。1996年以来オランダに暮らしており、現在、オランダ社会とその民主主義へのかかわり方に関する本を準備しているところです。

新しい「歴史教科書」についての議論と本講演の目的

    さて、村岡教授より「オランダと日本の学校の歴史教科書」についての話をしてください、との依頼をお受けした時、その課題をどういう角度から分析したものか、初めは焦点を定めることが出来ませんでした。たんに、「歴史教科書」の分析といっても、その分析にはいくつもの視点を考えことが出来るからです。

    ところが、間も無く、このテーマに関係して、日本で、一つの出来事が起こりました。反動的な知識人たちのグループによって作られた新しい反動的な「教科書」が文部省の検定を通過し、来年2002年4月からこの教科書を日本の学校で使うことが認められてしまったのです。この反動教科書についての議論に関しては後で詳しく取り扱いますが、ともかく私は、今回の歴史教科書についての分析との関連で、次のような問いを立ててみました。その問いとは、

 1.   なぜ日本では戦後50年以上も経っているにもかかわらず、反動的な国家主義者が現れてくるのか、なぜ、戦争中における日本の攻撃的な犯罪に対して国民の認識が低いのか、このことについて日本の学校における歴史教育はどのような役割を果たしてきたのか、

2.    日本の歴史教育はオランダの歴史教育から何かを学ぶことが出来るか。

という二つです。

    前もってお断りしておきますが、私はこの課題について、まず両国の歴史教育の制度的な環境や方法を分析すること、さらに、最近の日本とオランダの歴史教科書の内容を辿ることによって、出来る限り、客観的な立場から分析することを試みました。現在議論されている反動的なグループが作った教科書の編成と検定通過について個人的に非常に問題を感じるものでありますが、正しい分析のためには、この私の意見はしばらくの間、出来る限り距離をおいておかねばならないと思います。

    また、「オランダと日本の両国の歴史教育の比較」とは言いますが、それは、あくまでも「日本の新しい歴史教科書をめぐる現在の論争」の焦点を明確にすることが目的であり、オランダの歴史教育や歴史教科書について問題点を指摘する、ということは、私の意図するところではありません。

2.    日本とオランダの歴史教科書の置かれている制度的環境の相違

「教育の自由」について

    「歴史教科書」の分析に入る前に、まず、両国の学校制度の違いを明らかにしておくと理解の助けになるのではないかと思います。

    オランダの学校制度において、最も重要なキーワードは「教育の自由」ということだ思います。オランダの文部省は「教育の自由」の内容を「設立の自由」「教える自由」「教育(teaching)を組織する自由」という3つの自由で説明しています。この、オランダの学校制度の最も重要な原理としての「教育の自由」はオランダにおける学校の発展の歴史と深い関わりを持つものです。オランダの学校は、種々の主要な社会的集団による教育への取り組みによって生まれてきたものです。これらの社会的集団は、よく“支柱(zuil)=オランダ縦割り集団”と呼ばれるものです。個々の「縦割り集団(zuil)」は、社会の政治、経済、社会的諸事項について独自の倫理観や思想を持っており、したがって教育がどのように組織されるべきかということについても独自の考えをもっています。これまで主要であった、また、現在も主要とされている4つの「縦割り集団(zuil)」とは、カトリック集団、プロテスタント集団、社会主義者の集団、および、自由主義的集団である、と私は理解しています。個々の「縦割り集団(zuil)」は学校の構成、教育の内容、教材、教材の使い方などについて独自の考えをもっており、これらの縦割り集団の学校は、政府によって、「私立」学校として認められ、政府から補助金を獲得してきました。だからオランダでは、多くの学校が時代の流れとともに、互いに似てきた面はあるとしても、教育の内容や方法に比較的大きな多様性があるのが当然で、市民は自分の子供のために最善の、少なくとももっとも適切だと思われる学校を選ぶことが出来るのです。これがオランダにおける「教育の自由」の中身です。

    ところが、日本には、そういう「教育の自由」は存在しません。これもまた、日本の学校制度の成り立ちに起因するものです。日本の学校制度は、鎖国終了後の明治期に、種々のヨーロッパの制度を模範にして作られたものです。しかし、日本政府が模範にしたのは、枠組みであり、形であり、必ずしも中身ではなかったのです。何よりも大きな問題は、学校制度が、「政府」によって上から決められたものであったということです。「何を学校で教えるか」「どう教えるか」といったことまで、文部省が取り決めてきたのです。

    今説明した事情は、いわゆる「公立」校と「私立」校の発展が、オランダと日本の間では大変異なったものである、ということにも関係します。オランダでは、種々の私立学校が完全な「教育の自由」を勝ち取るまでに,約百年にわたる戦いが経験されねばなりませんでした。オランダの「公教育制度」が形を成して来るのは、フランス革命以後の19世紀の初頭からですが、それ以前には、教会やギルドなどの私的団体がインフォーマルな教育を行っていました。19世紀の初頭になって, 聖俗分離が公的にも認められ、教育に対して国が関与することが、憲法においても取り決められるようになります。しかし、この「公教育」制度が端緒について間も無く、私立学校を支持する人々、特に教会集団の人々の間から、まず学校設立の自由を、さらに後には、国庫からの補助を求める動きが現れ、1848年に設立の自由が、1887年には、国庫補助金の一部獲得が、そしてさらには、1917年に公立校と平等の補助金の獲得が達成されます。現在のオランダの学校制度の基礎は、この「学校闘争」によって築かれており、そのために、オランダでは、教育の内容や方法に種々の考え方や哲学を持った私立校が、公立校と同じ地位を認められているのです。「公立」校の重要な特性は、すべての子供に対して開かれていること、すなわち、教育を受ける一般的権利を保障するためにある、ということが出来ます。ところが、日本では政府によって指導された「公立」校が、あくまでも最も「正当」であり「主流」であり 最も「重要」なものとして初めに存します。その後に発展してきた「私立」校はずっと小さな権限を持っています。「私立」校が政府の補助金を必要とするのであれば、出来るだけ「政府」の定める条件に従って、教育の内容や方法を合わせなければなりません。

    それでは「教育の自由」という言葉は日本では聞かれないのか、というと案外そうでもないのです。「自由」という言葉は、戦後の日本がおそらくシンボルとまで感じてきたに違いない言葉で、学校の職員室とか廊下とか、教育委員会の会議室とか、職員組合の部屋とか、いたるところに見られる言葉です。

    では、日本では「教育の自由」をどのように理解しているのでしょうか。実は、ここに少し厄介な問題があります。Vrijheidという言葉は日本では「自由」という言葉で訳されますが、実は「自由」というと単にvrijというだけでなく、「束縛されない」、あるいは「中立的」の意義ももっています。

    3年程前、日本の中学校の社会科教師たちの会合に招かれて情報交換する機会を持ったのですがそのときに「『教育の自由』をどのように理解しておられますか」 とたずねましたところ、一人の教師が「教育の自由というのは、生徒に特殊な思想を押し付けないことだと思います」と答えました。これはオランダで理解されているのと正反対のことです。

    私は先ほど、「自由」という言葉が戦後の日本の「シンボル」のような言葉だった、と申しました。戦時中、日本人は、「天皇の写真」を崇め、「天皇の家系を辿る歴史を学び」「欧米の植民地支配を悪とする」という考えを押し付けられました。敗戦で、多くの日本人は、そのような全体主義の鎧のような考えから、「やっと開放された」「自由を与えられた」と考えたのです。だからこそ、どんな「思想」にも染まってはならない、「ニュートラル」であることが大事だ、と非常に強く考えました。もはや追随させられるのではない、中立で居るのだ、というのが戦後の日本社会の絶対的な価値となりました。けれども、それでは、誰がこの「中立」を保障するのでしょうか。だれた、自分たちの自由、思想における中立性を守るのでしょうか。それは、政府の役目でありました。政府の最も重要な機能の一つこそは「中立性」の保障ということでした。私は、この考え方は日本人の大多数によって非常に容易に受け入れられたものであると思っています。政府が国民に伝えることは、「偏見がなく」「中立的で」いかなる思想からも「自由」である、というわけです。 

    もう一つ是非ここで思い出していただきたいことがあります。それは、日本社会は、非常にタテの序列の強い社会であるということです。これは、法律的に保障されているわけではありませんが、伝統的にそのような社会であったという意味でです。日本では、家族、親族、村、近隣、学校、職場、会社、組合、等々、ありとあらゆる集団において、年長者、社会的地位・序列の高いもの、学歴のあるもの、家柄のよいもの、女より男がリーダーシップをとり、その集団の責任を負います。この伝統が、今も厳然と存在します。個人の達成したものや意見ではなく、ある一定の集団の社会的属性の方がずっと重要なのです。同様にして、政治家や政府といったものも大きな社会的権力を得ています(少なくとも現在にいたるまでは)。

    非常に短い日本社会のスケッチではありますが、そのような日本の社会的な風土を想像していただければ、「政府」の権威がいかに大きなものであるか、なぜ、その大きな政府の権威が一般的に国民によって受け入れられているのか、をすこし理解していただけるのではないでしょうか。これが、学校教育や教科書に関して、日本の文部省の権威と干渉性を説明しています。

    戦前、また特に戦時中は、日本のすべての教科書は、「国定教科書」といって、文部省が作っていました。それは、終戦直後の「教育改革」によって「検定制度」となり、業者が作ったものを文部省が検定して、学校で使われるようになりました。現場の教師らも教科書を選ぶ権利を得ました。しかし、文部省による「教育指導要領」というものが、各教科の目標、内容、方法などを規定しており、それにそったものでなければならないことになっています。そのために、業者である教科書会社は、その編集に大きな制限を受けます。その結果、教科書を出版する会社は数社あっても、これら異なる出版業者が作った教科書には、内容や方法について、ほとんど明らかな差が無いということになります。教科書会社が独自の考えや方法を入れる余裕がほとんど無いのです。

3.「歴史教科書の内容(方法)についての日本とオランダの比較

    さて、これまでに述べてきたことを前提として、実際に両国の「歴史教科書」を見てみたいと思います。

教科書の概観・方法の違い

    「教育の自由」が保障されているオランダでは、学校や教師自身が何をどう教えるかを決定します。したがって、教科書もさまざまの形と内容をもっています。 最近の傾向として、中学や高校で、オランダでも文部省が以前よりも「統一化」に乗り出しているのは事実です。しかし、それが意図しているのは、「インフォメーション時代の到来」と「グローバリゼーション」の流れの中で、子供たちが自主的な勉強によってそれに応じる力をつけることです。子供たちは、非常に多種多様な情報からみずから選び取り、それを自主的に消化していかねばなりません。したがって、オランダの文部省が推奨しているのは、今までのように教師教室の前に立って授業をするという古典的な様式ではなく、もっと個別に、生徒のより大きな自主性を尊重して指導する、ということです。文部省は一般的な目標や教科ごとの主要目標を示してはいますが、それ以上に内容や方法に制限を与えることはしません。

    さて、ここでちょっと付録の1をみてください。

    付録の1として、日本の教科書とオランダの教科書の目次の部分を示しておきました。すぐに目にとまる大きな違いは、日本の教科書が、「歴史」を時代を追って記述した形をとっているのに対して、オランダの教科書では、この「時代を追った」記述の傾向がずっと小さいことです。オランダの教科書では、各章は一つ無いしそれ以上の「テーマ」が決められ、それによって、何らかの歴史的な出来事が取り扱われています。このオランダにおけるテーマに基づいた記述とは反対に、日本の場合、小中高等学校で教えられる「歴史」は、「歴史的出来事」を年代順に「知る」ことであり、しかもそれは「政府」が認めた立場からの解釈だけを学ぶことを子供達に求めています。

    オランダの歴史教科書はまた、近代に対して大きな割合を割いています。より最近の時代ほどわれわれの現代との関わりは深いわけで、したがってこの時代を取り扱うためにいろいろなテーマを持って学ぶようにしているのです。しかし、日本では、古代・中世・近世・近代の割合がほとんど均等で、近代に対する特別の強調は見られません。特に学年末に教えられる近代・現代史では、時間が不足してしまうことがある、というような教師の発言もしばしば目にします。

    さらに、オランダの「歴史の教科書」をいろいろと見てみると、手紙、日記、写真、プロパガンダなどといった、多くの一次資料が掲載されているのに気づきます。このような資料を検討することで、生徒自身が「解釈」をすることが出来るのです。つまり、子供たちは将来の歴史家、といったつもりで一次資料を学ぶのです。この訓練はオランダの中等教育では上のクラスに進むほど大きくなってきます。しかし、日本について見ると、小学校から高校にいたるまでの教科書の構成や記述の形式にはほとんど相違がなく、小学校から中学へ、そして中学から高校へと移行する際の歴史教育の変化は、単に記述が詳しくなり、ボキャブラリーが増えるに過ぎず、その話の筋や形、取り上げられる史実にはほとんど大きな変化は見られません。

戦後の日本の歴史教科書

    それでは、日本の文部省が、戦後、認めてきた日本史の「正当な」解釈とは一体どのようなものであったのでしょうか。

    戦後の日本の歴史教科書の内容の変遷について、ちょうど、早稲田大学のある若い教育社会学の研究者、岡本智周(ともちか)氏が、発表している、興味深いの研究が見つかりました。この研究の中で、岡本氏は、戦後の日本が置かれた国際的環境と「教科書」の内容を関連付けて説明しています。彼の論考は大変興味深く、多くの点で私自身もその分析に同意します。

    付録の2として、岡本氏の分析のキーポイントのノートを作っています。また、

右側に、歴史教科書の記述に影響があったと思われる、関連した歴史的出来事を付記しました。この付録を見ながら、これからの話を聞いていただけるとよいかと思います。

    岡本氏は、終戦から、90年代半ばまでの時期を、歴史教科書の内容の変遷にあわせ、付録にみられるような、6つの時期、に分けています。 岡本氏は、「新しい教科書をつくる会」の活動を追っていますが、その最終版、文部省による検定通過、日本内外からの反応などは研究後に起きています。

    岡本氏は次のように解説しています。

    終戦後まもなく、日本は連合軍に占領されました。占領期の日本の政策は主としてアメリカ合衆国によって規定されており、5年以内にさまざまな日本社会の民主化のための改革が行われています。 戦前の、エリート教育と大衆教育を分割する教育制度は、より平等性を求めたアメリカ型の制度によって取って代わられました。以来、すべての子供が同じタイプの小中学校に行くようになりました。教科書は「国定」から「検定」となり、業者が教科書の作成にかかわるようになりました。当時の日本の指導者は、「一億総懺悔」を国民に呼びかけました。つまり、すべての日本の市民はみずからの過去、すなわち戦前と戦中のことに関して、懺悔をする気持ちでいなければならない、というわけです。この時期の歴史教科書には、「戦勝国=祖国と民主主義のために戦う民主主義国」、「敗戦国=全体主義の悪、凶暴な軍国主義」という記述が見られた、と岡本氏は述べます。しかし、この、民主主義の発展に向けられた時期は短命に終わります。1950年の朝鮮戦争の勃発により冷戦体制が顕著となったからです。アメリカ合衆国は台頭してくる共産主義に対して極東にパートナーを求め、特に軍事基地を求めるようになります。日本社会の「民主化」のキャンペーンはいち早く姿を潜め、代わって「安全保障」や「経済発展」が前面に押し出されてくるようになります。

    この時期には教科書においても「民主化」は軽視されます。政府は、前の時期の教科書を「左翼的である」と批判するようになります。各地方自治体の教育委員会の権力が増し、現場教師の教科書選択権は実質の伴わないままに終わります。

    日本経済の高度成長期に伴い、この傾向は第三期にいたって、ますます顕著となります。「高度成長」や「早い戦後復興」が内外から礼賛される中で、自民党の支持は高まり、1966年には、中央教育審議会をして「第二次世界大戦における敗北は、日本の国家と社会のあり方、および日本の思考法に重大な変革をもたらした。特に敗戦の悲惨な事実は、過去の日本および日本人のあり方がことごとく誤ったものであったかのような錯覚を起こさせ、日本の歴史および日本人の国民性を無視する結果を招いた」とまで言わせています。中央教育審議会が個々で示唆しているのは、教育における新国家主義の強調の必要性です。

    これは、日本人が経済発展により非常に自信をもった時代であり、そのために社会が新国家主義の温床となりえたのです。 

    70年代の初めには大きな変化を予想させるいくつかのことが起こっています。1972年にはベトナム戦争が終結し、73年には石油ショック、74年には日本経済が初めてマイナス成長を記録しています。しかし、岡本氏によると73年から82年までは、戦後日本のナショナリズムのクライマックスであった、ということです。日本が、アメリカにつぐ世界第二の経済大国の地位を享受し、人々がその成功に大変満足していた時期で、背後で育ちつつあった、種々の社会的な問題に向ける目を持たなかった時期です。

    これらの諸問題が顕在化してくることによって教科書における歴史の記述への文脈にもついに変化が生じるようになります。

    ベトナム戦争敗退によるアメリカ的世界観の見直し、日本の経済進出に対する東南アジア諸国各地での反日暴動、進歩的な歴史教科書を書き、自著の教科書が文部省の検定を通らなかった家永三郎教授が起こした教科書裁判によって、教科書検定のあり方についての議論が起こります。

    韓国や中国との国交が回復し、外交や経済折衝が増大するにつれ、過去の歴史的事実への日本の立場にたいして、これらの国々からの議論や批判が現れるようになります。国内でも、戦時中に多くの犠牲者を出した沖縄の市民から、歴史記述への非難が顕著になってきます。そうした、主として国外からの、また一部、国内からの批判によって、「文部省が認める」歴史の解釈が変わらざるをえなくなります。これが、岡本氏の言う、第5の時期です。中国や朝鮮への日本の侵略を、文部省の指導によって「進出」としていた教科書を、日本政府は、抗議によって史実どおり「侵略」という言葉に変えざるをえなくなります。しかし、こうした動きに対して、保守政党、自民党の政治家らを中心に、「新保守主義」のキャンペーンが組織されていきます。

    にもかかわらず、岡本氏によると、1990年代中頃以降、つまり第6期にいたって、日本の教科書記述は、さらに非国家主義的になっていったといわれます。史実の選択やそれについての記述様式が、現在は、書き手の国籍にとらわれなくなってきています。より国際的な見解が日本の歴史記述に現れてきます。日本のアジア地域への統合化、がこうした傾向を説明するものであると思われます。そのため、現在の教科書には、「南京虐殺」「侵略地における皇民化政策」「従軍慰安婦」「中国侵略」「沖縄の悲劇」が教科書に掲載されています。私が、嘗て学校に通っていた時代には聞きもしなかった悲惨な事柄です。これは、これらの史実における日本の「加害者」としての役割を、文部省がやっと受け入れたことを意味しています。

 

4.新しい反動的な歴史教科書についての議論

   現在、韓国や中国から轟々の非難を受けている新しい教科書は、「新しい歴史教科書を作る会」(通称[つくる会])によってつくられました。この会のメンバーたちは、現行の日本の教科書(すなわち日本の「加害者」としての過去を記述したもの)を「自虐的」と一括します。

    「つくる会」は、次のような目標を掲げて1997年に設置されています。

    「子供たちが日本人としての自信と誇りを持ち、世界の平和と繁栄に献身できるようになる教科書を、、、つくり、普及するために必要な一切の活動を力強く推進すること」

   彼らは、新しい教科書の中で、「戦前の天皇の国家」を称え、「中国や朝鮮への日本の侵略」を認めず、日本の植民地化の行為を正当化しています。文部省においても同時に歴史記述について反動化の動きが現れています。文部省は137箇所の修正を認めたものの、この作る会の教科書を最終的に検定で合格させています。この教科書が未だに強い反動的傾向を持っているにかかわらず、です。この検定合格の発表の後で、進歩的な全国紙「朝日新聞」は、他のいくつかの出版社も戦時中の日本の行為に関する記述を教科書から削除している、とコメントしています。

    すでに述べたように、中国と韓国は日本政府に対して公式に抗議をしています。日本国内においても、学校教員組合や地方の進歩的な議員らによる全国的な団体、「自主・平和・民主のための広範な国民連合」が、「つくる会」に対して強い批判をしています。しかし他方で、「つくる会」はその活動をますます宣伝しています。有名でよく知れ渡った大学の教授らが議長や理事になっています。会はまた、人気企業の経営者やベストセラー作家などがメンバーになっていることを公表しています。この会がこうした企業や作家の人気を利用して大衆の支持を得ようとしているのは明らかです。(このような有名人がこの目的のために利用されるままになっているのも明らかです。この人たちは明らかに会の主旨に同意しているわけです。なぜなのでしょうか?彼らは依頼されたのでしょうか?賛成者と反対者の間の議論はあるのでしょうか?それから何が結論されているのでしょうか?この反動的な動きの真の理由はなんなのでしょうか?)

   私はかなり定期的にインターネット上で新聞その他の情報を読んでいます。また、この議論の動きを追うために日本の学校の教師らとも定期的に接触しています。これは私の印象ですが、「つくる会」の教科書への反対者がまだうまく組織されていない間に、「つくる会」のほうは一般の国民の間にどんどん支持を広げているように思われます。 一般の市民はまた、ほとんどこれについて情報を得ておらず、消極的な態度を持っていて、この議論全体の重要性に気づいていないようです。長期にわたっている不況と、また益々潜在しているかのような日本人の劣等感が、ここでも何らかの役割を果たしているように思えます。

5.結語

    はじめの問いに戻ります。「なぜ日本では戦後50年以上もの間繰り返し反動的な国家主義者が現れてくるのか、なぜ、世界的に認められた植民地時代や戦争中における日本の犯罪に対して国民の認識が低いのか、このことについて日本の学校における歴史教育はどのような役割を果たしてきたのか」

    「戦後の日本では、日本社会の民主化のための「教育改革」がなされたにもかかわらず、文部省による学校教育の内容についての大きな統制が続いたから」という説明がこの問いへの一つの答えとなり得るのではないでしょうか。この文部省の統制は、特に歴史教育に関して言えば、過去の時代の日本に関する出来事について、「画一的」な解釈を「正当なもの」として子供達に押し付けてきました。80年代の初めに日本に対して、教科書における戦争中のネガティブな事実について記述するように働きかけてきたのは、主として中国や韓国からの、つまり外国からの批判でした。

    しかし、そうした「外圧」による歴史解釈の改変であったがゆえに、その批判は新しく反動的新国家主義者の運動を招きました。この運動は現時点において、益々多くの国民の支持を得ているように見受けられます。「外からの抗議」が日本人の「ナショナリズム」を刺激しているようにさえ感じられます。

    なぜ、このような事態が起こるのでしょうか。

    私は、戦争直後の「民主化」政策の不徹底、と「タテの序列」を重んじる日本の伝統的な社会構成とが大きな理由である、と思います。

    「天皇」を頂点とするタテ社会こそは、戦前の日本の非民主性を象徴するものにほかなりませんでした。それを突き崩すべく、敗戦後の日本では、いくつもの「民主化」のための「改革」がすすめられました。しかし、この「改革」もまた、アメリカ合衆国という外からの指導によるもので、内から起こったものではありませんでした。米ソ対立、冷戦によって、日本の「民主化」という目標は、まもなく無視されてしまいます。それは、まさに、「日本の戦後史の不幸」であった、と私は思います。しかし、その「不幸」こそはこれに続く30年もの経済の高度成長、さらに、日本の「経済大国」としての地位の確立によって、日本人一般にはまったく意識されなかったのです。

    しかし現在、日本は70年代や80年代とはまったく異なる状況の中にあります。90年代に入ってからの「経済不況」は、今のところまだ脱却の見込みがなく、今後老齢人口の拡大が予想されているにもかかわらず、失業率は戦後最高、公定歩合はすでに永い間、1%をはるかに下回っています。この「経済的な閉塞状況」が、社会内部に、二つの相反する動きをもたらしています。

    それは、一方における、民主主義への希求であり、他方におけるナショナリズムの再現です。経済不況が起こったことによって、70年代や80年代において、西側諸外国からも注目された「日本的組織」が、実は「非効率」で「非民主的」なものであることが明らかになってきました。これまで、縦社会の上の方に序列する人に依存して居ればよかった社会構成が崩れ、人々は、自分で自分の身を守らねばならないことに気づき始めています。しかし、こうした「民主制」や「人権尊重」に対する人々の欲求は、個人的レベルにとどまり、現在のところ社会運動としては、まだ組織化されていません。そのような、人々の社会への不満を捉えて、国家主義的運動が社会内に急速に支持を得て成長しています。「日本人としての自信を持とう」と運動は呼びかけます。「つくる会」はその典型です。

   日本人が今警戒すべきなのは、この見かけだけ魅力的な「国家主義」に巻き込まれてしまわないようにすることです。伝統的に不平等な日本社会の更なる民主化に向かっての意志力と組織とが緊急に必要となってきています。(国外からの圧力も、特に極端な方向に走っていくのを防ぐために必要かとも思われます。)

    そういう意味で、「オランダの歴史教育」から示唆されることは大変多いとおもいます。第一に、歴史解釈の多様性の容認、第二に、歴史を時系列で取り上げるのではなく「テーマ」として取り上げることによって、「歴史」を原因と帰結の論理性によって理解し、さらに、現代における意味を生徒自身に考えさせること、第三に、生徒自身に歴史的一次資料に親しませ、自らが「歴史家」として史実を解釈する機会を与えていること、です。どのような社会であれ、国家であれ、そこには、「主流」と呼ばれる「歴史解釈」がある事は避けられません。それは、その社会にとって都合のよい「過去の解釈」であり、そういう意味では、オランダの教科書に出てくる「歴史記述」もまた、何らかの「バイアス」を含むものである可能性は高いと思います。しかしながら、オランダの歴史教育は、その問題を、「生徒」自身の主体的な学習という形である程度回避する道を残しています。いずれにしてもより批判的な態度が要請されています。

    このように、歴史教育の「方法」を論じるということは、「つくる会」の歴史教科書をめぐる日本での教科書議論には余り表面に出てきません。支持者も反対者も、それぞれみずからの解釈の正当性を論じるだけで、方法や、教科書編成の方式、添付する資料などについては論じていません。今回の、日本とオランダの歴史教育についての考察を終えてみて、わたしは、日本の歴史教育は、何らかの「歴史解釈」を単に伝える、というだけの授業から、個々の生徒自身を駆け出しの批判的な「歴史家」として訓練する形へと変わるべきだ、と強く確信するものです。

 

ドイツの学校における歴史の教科書
村岡崇光 ライデン大学

    第二次世界大戦中ドイツ、イタリアとともに軍事同盟を結んだ一国として、日本とドイツはその現代史の重要な部分を共有しています.ドイツと同じく、日本も敗戦の瓦礫のなかから不死鳥のように復興し確たる経済的地位を築き上げることに成功しました.しかし、両国の戦後の歴史は(ここではもっぱら旧西ドイツを視点においています)一つの点に関して明瞭に異なります.それは、ドイツ人と日本人がそれぞれの最近の歴史、両国が始めた戦争の本質、その背景、それぞれの本来の領土内ならびにその外で行われた、絶対に弁護の余地のない行為や「行き過ぎ」にたいする対処の仕方にかかわってきます.両国、両国民間のこの相違がIan  Burumaによる名著The Wages of Guilt: Memories of War in Germany and Japan (1994)のテーマを成しています.

    昨年の私たちの二回の会合でいくつかのことが表面に浮かび上がってきましたが、そのひとつは私たちの無知ということでした.私たちは自分で思っているほどにはお互いのことを良く知らない、自国の歴史に関する知識にも多くの穴があること、他者に対する偏見、先入観、歪曲された見解などです.このような状況は、私たちが各々の社会で、学校や家庭で歴史に対して払う関心の程度に負うところが少なくないこともはっきりしてきました.最初の会合の時、日本が15年戦争においてアジアの同胞に対して、また欧米の兵士や一般市民に対して戦争中行ったことを私自身がたいして知らなかったがために不意をつかれ、つらい思いをしたことをお話しいたしました.

    どのような近代国家においても、公教育は生徒の世界観の形成に重要な役割を果たします.彼らが自分の社会をどう見るか、他民族、他国民との関係においてそれをどうとらえるか、自分たちの未来をどう定めていくか、学校教育はこのような点に関して少なからぬ影響を及ぼします.ここで問題になっているのは、私たちの未来を担う若い世代です.勿論、古い世代の人たちの通ってきた苦しみ、それを加えた人たち、その犠牲になった人たちがこれにどう対処していくかは大事なことです.老若どちらの世代の方が大事か、秤にかけてみよう、というのではありません.両者はひとつの分かち難い全体の部分です.最近出版されたメリッサ・ミュラー著のアンネ・フランクの伝記の序文に「第二次大戦終結以来地球上のどこかで戦争がなかったのはたったの四日である」と、あります.人類に対するなんと厳しい断罪でありましょう.人間は歴史的存在であり、昨日なくして、今日も明日もありません.私たちが、老いも若きも過去をどのように受け止めるかが、私たちの未来、存続を決定します.

    私たちはいましがたリヒテルズさんから、日本の歴史教科書とオランダのそれとを比較した貴重なお話しを伺いました.私に続いて緒方さんが日本の学校では広島、長崎の原爆についてどう教えているかをお話しくださいます.私はドイツの学校教育に関してはなんら専門的な知識は持ち合わせない者ですが、それでも勇を鼓してドイツの学童が自国の現代史について何を、どのように教わっているかについてしばらくお話しさせていただきます.私の話しはワイマール共和国の崩壊から第三帝国の終焉にいたるまで、1933年から1945年までの期間に焦点を絞っています.

    本日の発表の準備のために私が大学で指導していますドイツ人学生から数冊のドイツの学校で使用されている教科書を借用しました.ギムナジウム(普通高校)の上級生用のもの3冊と特殊学級用のもの2冊です.

Alter et al., Grundriss der Geschichte, Bd. 2, Neuzeit seit 1789 (1984),

Ebeling und Birkenfeld, Die Reise in die Vergangeheit, Bd. 4, Geschichte und Politik in unserer Zeit (1973);

Hug et al., Geschichtliche Weltkunde, Bd. 3,

Von der Zeit des Imperialismus bis zur Gegenwart (1976), Klattenholf und Wachtel, Zeiten 4. Deutschland im 20. Jahrhundert (1995);

Grandt und Mu¨hldorfer, Macht mit 4, A, Geschichte/Politik.

    この5冊の教科書に目を通して見て、以下のような点を指摘したいと思います.

    1)歴史教育における現代史の比重.現代史の取扱いがきわめて広範にわたることが私の注目を惹きます.たとえば、教科書の一つDie Reise ..の記述は1871年をもって始まり、240頁に及びますが、この教科書は4冊からなる歴史教科書の第4部を成しています.ここで問題になっているのは現在、今日の人間です.いま自分が住んでいる世界はどのようにして今のような世界になったのか、自分は現代の他民族や他国民に対してどういう関係にあるかが関心の対象なのです.過去を手がかりにして、その光に照らして、現在を理解しよう、というのです.時間的に近ければ近い程、その過去は現在にとって直接的な意味をもって迫ります.ここには歴史教育をどうとらえ、どういう目的をそれに付与するかが関係してきます.歴史、ことに政治史は単に知的好奇心を満たすために教え、学ぶのではありません.前述のブルーマ氏が会ったドイツ人の歴史の教師によると、ドイツの学校の歴史の教科ではナチス時代の歴史に60時間を割くのが普通だそうです.

    2)真実を客観的に.ナチス時代の歴史を美化しよう、正当化しようという試みは一切なされていません.それは、単に、ドイツ軍がスタリングラードや北アフリカなどいくつかの戦線で嘗めせられた苦い敗北のことを言っているだけではなく、他国の兵士、非占領国の市民、自国の市民、政治的反抗分子に対する大がかりな、組織的な犯罪行為、略奪、「行き過ぎ」、ユダヤ人大量虐殺についても妥当します.この間の歴史はきわめて詳細に叙述されています.ヒットラー政権は歯に衣(きぬ)着せず全体主義独裁権力、恐怖政治体制、民主体制の癌として暴きだされています.ドイツが火をつけた戦争はドイツ民族の生存圏拡張、全欧州席巻を目標とした侵略戦争であった、と明言されています.さらにまた、ナチス親衛隊はかれらの行為を秘密裡に行おうとしきりと腐心したにかかわらず、相当数のドイツ人はユダヤ人殺害のことは知っていた、と率直に容認しています.ドイツ現代史に対するこのような率直で、真摯な視点にいたるところで出会いますと、ごく稀に行われる、他者に対する以下のような批判も素直に受け取らざるを得ないような心境にたち至るのです:「ドイツ国内の軍事目標や軍需産業に対する徹底的な集中空爆により1944年時点において、ドイツ軍はすでに実質的に麻痺状態に達していた.したがって、純粋に軍事的観点からだけしても、1945年から戦争終結まで連合軍によって行われたドイツの都市に対するじゅうたん空爆は無意味であったし、これを正当化することは全く出来ない.たとえば同年2月14日夜のドレスデンの空爆では少なくとも4万人の非戦闘員の死者が出ている」.

    このような客観的な、冷静な歴史記述にさいしては、写真、歴史資料の引用(ヒットラーの「わが闘争」、軍人や政治家の演説)、表や統計などがふんだんに援用されています.ポーランド人の犠牲者(ポーランド系ユダヤ人にあらず)に言及した箇所では、ポーランド人の著者による資料が引用されています.

    この記述がいかに冷静であるかは、「まだ労働力として利用出来る人間の殺害と犠牲者の大量輸送設備の不備・不足は戦争の効果的遂行を妨げたはずである」というような文章から推し量ることが出来ます.

    3)ナチス政権に対する抵抗運動のことにかなりの注意が払われています.ドイツ国内では「白薔薇」、告白教会、ヒットラー暗殺を企てて失敗したシュタウフェンベルグのこと、占領地区でのレジスタンス、パルチザンの活動のことがかなり詳しく描写されています.正確な数字は確定できませんが、ナチスに抵抗して命を落としたドイツ市民は一万人を越えると推定されています.これは戦後のドイツにおける徹底した再教育活動、過去の克服に対する真摯な努力に相対するものとして描かれています.生徒たちは、あの暗い過去は今日もなおまだ死に絶えてはいないことを「もう忘れてしまったのか?」という表題のもとに、丸坊主のネオナチの写真や、「トルコ人、出ていけ」という落書きなどの写真を通して教えられます.このようなことを背景に、1994年にドイツ大統領ヘルツォグが半世紀前のワルシャワでのナチス占領軍に対する蜂起を記念するための式典に列席し、「ドイツ人によってあなたがたに対してなされたことの許しを私はポーランド国民に求めます」と、述べたこと、それに対してポーランドのワレンサ大統領が「わたしどもの二つの国民は血の海によって隔てられています.この海を渡ってお互いが出会うための道程は決して短くありません.私たちは憎しみを心にはぐくんではなりません.私たちは良き隣人として平和のうちに生きたいですし、生きられるはずです」と応答した、とある.この教科書が単にヘルツォグの言ったことだけを引用するだけですませていないことは大事である、と思います.

    4)生徒たちは、年代や人名をただ丸暗記し、書いてあること、言われたことを無批判に鵜呑みするのでなく、独自の歴史観を築いていくようたえず促されています.宿題の一つに次のようなのがありました:「自分の郷里にあのころ住んでいたユダヤ人がどうなったかについての事実を集めてみなさい」.

    5)私が調べた教科書はいずれも戦後史のことを相当に詳しく扱っています.ドイツのみならず、中国、インド、第三世界の歴史、冷戦のことです.それにもかかわらず、どの教科書にも戦後の日本のことがただの一度も出ていないのに私は愕然とし、少なからぬ動揺を覚えました.ここから、どういう結論を引き出せばよいのでしょうか?

 

日本の中学校・高等学校教科書に記述された広島長崎原爆について
緒方毅 長崎平和研究所

[テーマを調査するために、私は長崎国際文化会館にある1996年発行の中学校教科書「社会科」7種と高等学校「日本史」21種を検討した]

私は長崎国際文化会館にある1996年発行の28冊の教科書において原爆投下を記述している本文を読み、調べ分析した。それぞれについて次に説明したい。

1.原爆がなぜ日本(広島・長崎)に投下されたのか

 中学用教科書と高校用教科書の間に大きな相違点が見られる。 中学用教科書では5社(72%)が「アメリカが戦後の国際政治上、優位にたつため」としているのに対して、高校用では4社(19%)。

 逆に、高校用は13社(62%)が「日本政府がポツダム宣言を黙殺したため」と記述しているのに対して、中学用は2社(28%)。

 この違いがなぜなのか私にはわからなかったので、何人かの中学校の先生に尋ねたが彼らも分からないと言うことであった。私は二つの理由があるのではと思っている。つまり、教科書執筆者と発行者。高校用4社は原爆投下理由を述べていない。理由は不明。高校生は学校で原爆投下の理由について学ぶ機会をもてないのではないかと思う。これらの教科書の執筆者は日本の高校生に対して無責任なように私には思える。

2,広島・長崎の被害者数について

 私たちは原爆投下によって死亡した人たちの正確な数字はわからない。しかし、1976年に国連の事務総長に提出した広島と長崎の市長の数字に近い数字をあげることはできる。長崎の場合: 27,28万人中、7万(±1万)が1945年末までに死亡。その後5年間を経て死亡した人々を加え、合計10万人以上

 このように教科書は公式の調査にもとづく正確な数字を述べることが必要である。しかしながら、それぞれの教科書がそれぞれの異なった数字をあげている。範囲は次のようになる。

     「広島 14〜20数万人、  長崎 6,7万人〜14万以上」

 これらの数字を見ていると、原爆投下による死者について書かれたり耳にした数字を信用しなくなるのではないだろうか。さらに詳細にみれば、これらの被害数字などを本文中で明記している教科書が中学用で5社(72%)、高校用で11社(52%)となっている。その他は写真などのキャプションや脚注、コラム欄での説明を試みている。残念なのは、高校用6社(28%)は、本文中で「原爆が落とされた事実」のみを記述し、脚注にさえ何の説明も加えていない。

3.放射能記述について

 放射能に関する記述は戦後の世界情勢を日本の生徒たちに教える際にキーポイントになる、なぜならば1945年の広島と長崎の原爆投下は核時代への出発であることを示しているからである。しかしながら、中学用で5社(72%)、高校用ではわずかに6社(28%)しか記述していない。これでは不十分である。多くの生徒たちが広島長崎への原爆投下は戦争における死の意味を変えた核戦争時代の始まりを意味していることを理解することが出来ない。

 放射能に関する説明がなくては、おびただしい人々が原爆投下によって死亡したと言うことは大量爆撃・大量殺戮によって殺された死と同じ意味をもつことになる。

 執筆者は次のように書くべきではないか:原爆はおよそ3秒という短時間におよそ10万人という人々を殺戮した。原子爆弾からの放射能は被曝後の急性障害だけでなく、現在生存している被爆者の健康を長年にわたって脅かし続けている。

4.外国人被爆者について

 外国人被爆者の記述についてはほとんど見つけることが出来ない。28社のうち2社だけが外国人について言及している。朝鮮人と台湾人だけがこの二冊に表れている、そのうちの一冊はいくつかの資料を使って詳細に朝鮮人被爆者について述べている。

 高校の教科書には外国人について何の記述もなされていない。これらの教科書の執筆者は戦争捕虜、つまりイギリス人やオーストラリヤ人やオランダ人などについて書くべきではなかったか。そうでなければ、日本の生徒たちは、なぜ外国人たちが当時長崎にいたのか、戦争捕虜たちが長崎市にいたという事実があるにもかかわらずアメリカは原爆を長崎になぜ落としたのかについて生徒たちは考える機会を失うだろう。

5.原爆被害の写真の掲載について

 原爆によって多数の人々が殺されたということは世界で初めてである。当然、原爆によって破壊された家や人々を示す写真が教科書に出てくる。しかしながら、この種の写真は教科書の半分にしか見あたらない;中学校5冊(72%)と高校11冊(52%)は原爆によって引き起こされたきのこ雲の写真を含めていくつかの有名な原爆写真を掲載している。(厳密にいえば、このきのこ雲の写真は爆発の下で生活している人々の真実の場面を表してはいない。)

 他の教科書は原爆に関連した写真を掲載していない。アメリカの空襲による悲惨な状況を示すために、東京、大阪、高松の写真が数冊の教科書に見られる。さらに、ミズリー艦船上での署名、沖縄への米軍上陸、皇居前でひざまずく有名な写真だけの教科書もある。

私の意見

 これらの教科書を読み分析した後、私は執筆者たちが原爆を詳細に記述することを避けようとしているという印象を持った。

1,執筆者はもっと詳細に原爆を記述すべきである。なぜならば、最近新しい重要な資料が情報公開されてきて広島長崎に原爆投下した理由について研究がなされてきている。そこで、執筆者はお互いに事実を検討しその新しい資料を教科書に取り入れるべきである。

2,執筆者たちは原爆が世界歴史の中でどんな意味をもっているのかを記述すべきである。この点では、ドイツとポーランドの教科書は戦後の世界情勢を見ながら原爆の歴史的意味を明確に記述している。

3,執筆者は原爆使用の戦争とふつうの武器を使用した戦争の違いを記述すべきである。執筆者は原爆が将来人類滅亡を引き起こす武器であることを明確に記述すべきである。執筆者は無傷と思われていた被爆者が後で発病し年々死亡している事実を記述すべきである。

4,イギリスの教科書にはいくつかの質問が設定されている。おわかりのように、生徒たちにとって原爆について意見を考えさせたり討論させたりすることは大切なことである。生徒たちはトルーマン大統領の声明と同じように原爆についての様々な意見を学ぶべきである。そのことは人類にとって核時代に生きていくために必要なことである。

* 付記:戦時蘭領インドシナ・オランダと日本の関係記事記載の有無

昨年、私たちは「オランダ人、日本人、インドネシア人ーーー日本占領インドネシアの記憶(*日蘭戦争原爆展)」を開きました。その時、私は一週間その仕事にたずさわり、多くの観覧者と「日蘭戦争」について話をする機会を多く持ちました。その観覧者のなかに高校生たちがいました。彼らはこの展示内容のことは初めて聞いた事実であり、約60年前オランダと日本の間に不幸な時代があったことにびっくりしていました。彼らは学校で学ぶ機会はまったくありません、なぜならば入学試験に必要とされる重要ないくつかの歴史的事実だけを勉強するからです、また先生たちも詳しく日本史を教える時間が十分ありません。

 これらの教科書を調査することによって、私は日本が東南アジアを侵略したという記述は見つけることが出来ましたが、日本が植民地化していたインドネシアでオランダと戦ったという記述は、2社の教科書以外見つけることが出来ませんでした。

日本書籍<新版高校日本史>本文: ・・・フィリッピンでも、バターン半島占領直後の1942年4月、日本軍は捕虜7万8000人を・・(中略)。また、タイとビルマをつなぐ泰緬鉄道の建設では、イギリス・オーストラリア・オランダ兵など連合国側の捕虜と東南アジアから強制連行した労働者を突貫工事に従事させて、死にいたらしめたり、食料も満足に与えずに骨と皮だけの状態に放置したりした。インドネシアでは占領当初は解放者として歓迎されたが、やがて希望は失望へとかわった。日本軍はインドネシアの民族旗と民族歌を禁止し、かわりに日の丸をかかげ、君が代を歌わせ、学校では日本語を使うことを強制した。また、十数万人というロームシャ(労務者)をかりだし、・・・

三省堂 <新日本史B>     脚注:従軍慰安婦には、朝鮮人、日本人のほかに、オランダ人、フィリッピン人などの女性もいたことが明らかになってきている。

 このように、日本軍が東南アジアを侵略した事実はすべての教科書に記述されているが、当時、350年にわたってインドシナを植民地支配しているオランダ人がいて、日本兵と戦闘行為があり、捕虜になり、強制労働があったり殺されたりしたという記述はない。

 同時に、次のような事実も記述されていない:1945年8月に日本が敗れたとき、日本軍が5年前に行ったと同じような状態を経験したということを。

 全28冊の教科書に書かれている二つのテーマについて調査を終わってみて、私は二つの点を指摘したい:一つは、私たちはたとえそれらがお互いに不幸な出来事であったとしてもお互いの間のすべての歴史的事実を知る努力をするべきであるということ。

 二つ目は戦争はいつもたいへん悲惨で無益なものであり、それぞれの国と国民の間に大きな誤解を引き起こすものであるということである。私は世界のすべての国々と国民が二度と戦争を引き起こさないように願っている。    (01-6-14)

 

過去は現在に潜み、未来はいまにかっている
E.W.リンダイヤ

    ものを記憶できるということは大事な能力であります.私達はその有難さを普通どうかすると見過ごしなのですが、私達の人生に意味と価値とを付与するものであります.それは私達自身にとってのみならず、他の人、ことに自分に近しい人にこれは言えるのです.何事かを記憶しているということで人生に、より深い意味が生まれます.しかし、私達がこの重要な能力をどう扱うか、というのは大事な問題です.私達が過去において経験したことをどの程度まで、私達自身と私達の子孫のためのより良い未来を目指しつつ意識的にまた創造的に現実化していくことが私達にはできるのでしょうか?

    人間の記憶をコンピュータのもつ機械的な記憶に対比する人が少なくありません.コンピュータはいじらないで放置しておけばそれが記憶しているデータの内容は変化しません.死んだ、無意識の、形骸だけの記憶と考えることが出来ます.外からみるときちんとしていて、信頼が置けるのでしょうが、創造的ではないし、必ずしも容易に理解できるわけでもなく、包括的でもありません.わたくしたちが将来に視点を置いて創造的に対処しようとする場合、人間の記憶はこれとどう違うのでしょうか?

    人間や動物の本能を無意識の記憶と呼ぶことがあります.持ち主はそのような記憶を創造的に応用することも他人の記憶と比較対照することも出来ません.ですから、本能に基づいた反応はここではこれ以上取り上げないことにします.

    したがって、記憶は将来のために利用することの出来る類ない道具の一つであり、うまく利用すれば、将来の問題の多くが解決されるでしょう.そう考える人は、私達人間の記憶力だけでなく、その記憶に基づいて恒久的な平和を築いていくに必要な態度を育てていく能力をも認めていることになります.そのような過程が実り多い結末に到達するには、相当の時間と努力とが必要です.そのためには、私達各人が真摯に、他者を非難するのでなく、互いに尊敬しあいながら自分が所属する集団の過去の歴史と未来に対する期待に対処していくことが要求されます.そのためには、既に申しましたように、暴力の原因を確定し、その結果を癒していくために共同で真剣にこれに取り組んでいこうという態度と努力が必要となります.

    この点において、真心に発する行為に結晶するような態度、和解を実現するために許し、許されるということが大事です.その様な態度をとることができると、私達は他人を批判することをやめるようになり、妬みや憎しみにつながる批判や不安から私達は解放されます.そういう態度をとることによってはじめて、私達は他者に心を開き、愛において互いに交流することが可能となります.どのような社会においても、私達のかならずしも頼りにならない記憶が利用ないしは悪用されて、たとえば裁判にかけて相手の非を確定し、自分が所属する集団に妥当する基準や価値観に基づいて刑罰を要求する、ということになります.いずれの社会においても違反者は処罰し、社会を保護する必要がある、というきわめて原初的な動機に基づいた法体系が編み出されました.そこにおいては、弁償、罰金、有罪無罪の確定、面子の喪失、恥じなどといったこれまた原初的な動機が重要な役割を果たすのです.社会のできるだけ広範な層に受け入れられるような判決が違反の真の原因に先行してしまうことがあまりにもしばしば起こります.刑の軽重もそういう事情を勘案して決定される、というような事態が発生します.

    ここ近年、いろいろな社会・文化がいかに相互に影響しあい、実質的な人権の内容を確定し、そのような人権を普遍的に維持、保護し、人権侵害行為を処罰し、そのような侵害を惹起するところの原因除去のための対策を共同で模索しているさまが日毎に明らかになりつつあります.

    かつてケプラーはわれわれ人間の行動の価値を特徴づけるものとして誠実さをあげ、「われわれの行為の真の内容がその完全性を規定する」と述べました.許し難い行為の真の原因を正確に同定することができればそれによって生じた被害を処理できる可能性が大きくなります.もう今からそのようにして現在と過去とを結び合わせることによって、私達の心のなかで、また世界全体に、これまでこんなに長く待ち焦がれてきた平和を実現せしめる可能性が生まれるのです.

    過去を意識的に忘れ、否定することは不信の念をよびおこし、より良い未来を達成することの出来る可能性が減じるおそれがあります.それと反対に、過去を正確に記憶し愛の原理を実践することはより良い未来を生み出す源泉となります.このふたつを私達個々人にあっても、社会にあっても実質的に結び合わせる努力をけっして怠らないようにしようではありませんか.

 

前英兵極東捕虜に随行して
ホームズ恵子 アガペー財団
英国在住のホームズ恵子さんは、最近数年に渡り、元英兵極東捕虜の精神的諸問題や苦痛に取り組んできておられ、彼らと日本人との間の和解のために尽くしておられます。彼女のこの努力と貢献に対して、数年前にイギリスの女王から勲章を施されました。最近ホームズさんは、オーストラリアでの同様の問題とも取り組んでおられます。

こんにちはみなさん。私を皆さんの集まりにお招きくださり、和解の活動の証をさせていただけますことに感謝いたします。村岡先生には特にお世話になっています。ありがとうございます。

    最初に、日本軍がしてきたことについて謝罪いたします。日本の国は皆さんや多くの国々に対して非常な苦痛と辱めを与えてきました。皆さんを長い間苦しめてきたこと、本当に申し訳ありません。私たち日本人は非常に傲慢で、残虐で、プライドが高く貪欲でした。皆さんにとって日本を許せないのは当然のことです。でも、イエス-キリストのゆえに、私は皆さんに、日本を許していただきたいのです。私の祈りは、日本が謙虚になり、太平洋戦争時下行ってきた悪を認め、諸国に対してハッキリと詫びることです。神が皆さんの傷を癒し、苦しみから解き放たれますように。

    私は日本の本州、三重県の山奥で生まれました。学生のとき東京でポール・ホームズというロンドン出身の英国人にめぐり会い、結婚しました。私は主人を通してクリスチャンになりました。二人の息子を連れてロンドンに住むようになったのは、20年以上も前です。

    それから5年後に主人は出張中飛行機事故で他界しました。外国で2人の息子たちを育てるのはたいへんなことでした。ある日私はイエスさまに言いました。「これ以上生きてゆきたくありません」と。イエスは聖書を通して次のように答えられました。「私の恵みはあなたに十分である」。私はその時、神の愛に包み込まれるのを感じました。イエスは私に神に信頼するように言い「一緒に働くようになる」と言いました。その時私には主が何をおっしゃっているのか分かりませんでした。

    私の故郷の紀和町にはかつて銅山がありました。第二次世界大戦の時、この炭鉱に300人の英兵捕虜(FEPOWs)の人たちが、タイメン鉄道完成後にここに連行されて来ました。

    紀和町ではFEPOWsは人間として扱われました。住むところが与えられ、作業着も与えられ、食べ物もそこの炭坑夫と同じようなものを食べていました。炭坑夫や勤労動員の中学生たちはFEPOWsと一緒に働いていました。彼らは軍からFEPOWsと接触してはいけないと厳重に言い渡されていましたが、看守の見ていないときにはお互いの言葉を教えあったりしていました。しかしながら、残念なことに16人の英兵が亡くなりました。彼らの墓は山の上にありましたが、戦後遺骨は町の近くの安全な山のふもとに、一まとめに移されました。それは素朴な墓でしたが、人々は一年に2度追悼式をしてきました。

    主人がなくなって数年後に私がお墓を訪れると、かつての墓が花を植えられた美しい庭に、御影石のすばらしい墓に変身していました。別の石にはなくなった16人の名前が刻んであり、大きな銅の十字架が立てられていました。私は感動し、かつてそこに連行され苦役をしてきたFEPOWsを探し当てたいと願いました。そして彼らを彼らの戦友の墓にお連れしたいと強く思いました。1年間祈りました。すると奇跡が起こり始めたのです。1990年に紀和町で捕虜生活を送ったジョーが我が家を訪ねてくれました。また私は息子たちとノーサンバーランドに住むジョーと奥さんのモナを訪れました。

    1991年にロンドンで恒例のFEPOWコンファランスがありました。人々は「半殺しにされるから」私にそこには行かないようにすすめました。私は祈りました。するとイエスが「いっしょに行きましょう!」とおっしゃいました。それで私は出かけていきました。いろんな罵声が飛んできました。でも彼らに対する神の憐れみが私に注がれ、私は彼らに説明しようと近ずき、写真を見せました。そのうち彼らは切符を売ってくれました。そして会が始まりました。会場の雰囲気は重苦しく、私は初めて彼らがいかに苦しんでいるかを知りました。私には彼らの心の痛みが、やり場の無い怒りが、そして憎しみが伝わってきました。祈っているとイエスが話し掛けてくれました。「私は恵子を愛しているように、ここにいる一人ひとりを愛しているのだよ。私は恵子のために十字架にかかったように、この人たちのためにもかかったのだよ」と。生きてる神は泣いていました。神は私たちに最高のものを与えようとしているのに、私たちはそれを壊してしまうのです。私は「誰かが何かをしなければならない」と思いました。

    私は日本人にたいする、特に日本兵に対する神の許しを祈りました。すると神は私に、神は日本人も英国人と同じように愛してくださっていることを確信しました。私はイエスが私に「彼らに私の愛を伝えなさい。私の愛を示しなさい」と促しているように思いました。

   神は私に主人を通して神の愛を示してくれたように。私は、神の愛を人々に伝えてゆける器にしてくださいと祈りました。

   多くの困難を乗り越えて、また祈りつづけることによって、26人のFEPOWsと2人の奥さんを紀和町にお連れすることが出来ました。多くのFEPOWsは飛行機の中でも自分たちのしていることに自信がありませんでした。彼らの友が彼らを「裏切り者」と呼んだのです。彼らの心は日本人にたいするいろんな感情でいっぱいでした。

    それでも私たちが熊野市の駅に降り立ったとき、町じゅうが皆を待っていました。人々はユニオンジャックの旗を振り、花束を手にしていました。ひとりの女の子が着物を着ていました。まるで家族が再会したように、2つの国民がお互いの腕の中にひとつに溶け合ってゆきました。日本の人たちは非常に喜び興奮していました。墓地で私たちは感動的な追悼式を行いました。300人ほどが集まりました。

    追悼式の前の日は土砂降りでしたが、式典の日はすばらしい秋晴れでした。数人のFEPOWsが式典の後で私に言いました。「恵子、昨日の雨は私たちの涙だったんだよ。雨が私たちの恐ろしい記憶を、憎しみを、そして痛みを、洗い流してくれたんだよ。重荷が取り去られて今は喜びが溢れているよ。日本人に対して愛さえ感じ始めているよ」と。

    英国に帰ったFEPOWsは、もう悪夢にうなされなくなりました。そしてどんなにアガペの活動に感謝しているか知れないと言うのでした。また彼らは私にこの活動を続けるようにと、特にタイやその他の東南アジアの国々で辛苦を嘗め尽くした人たちのために、と頼むのでした。

    1992年からアガペは多くの人々や団体の協力を得て、「心の癒しと和解の旅」を続けてきました。これまでに約300人ほどの家族を交えたFEPOWsが日本を訪問しました。彼らは戦友の墓を訪れたり、日本人に会ったり、また日本人の家に泊まり、お互いの経験話をしたり、日本の学校や大学を訪れます。人々は彼らの戦争経験を熱心に知りたがります。旧日本兵が追悼式に参列し過去を詫びることもしばしばで、これがFEPOWsにとって一番心が癒されることなのです。

    1998年に私は英国女王からウインザー城で、OBE(英国第四級勲功章)をさずかりました。女王はアガペの活動に非常に興味を示され、息子や私と15分お話されました。彼女はたいへん親切で、アガペの活動を非常に喜んでくださり、この活動が末永く成功するよう、とお言葉をくださいました。

    デリックというFEPOWは日本へ行くまではたいへん日本人に悪感情を抱いていました。彼は東京で2人のかつての日本兵に会いました。そのうちのひとりはタイメン鉄道でデリックの監督をしていました。2人は謝りました。彼は2人を許すことができました。彼は言います。「私の心の重荷がすっかり取り払われ、憎しみが日本人への愛に変わりました。私はこの変化に永遠にアガペに対して感謝します」と。

    去年の3月の「心の癒しと和解の旅」の時、美智子皇后が私を皇居にお呼びくださいました。1998年に公式に英国を訪れた際、最初にお会いしてから、皇后は私に再び会う機会を探していたのだそうです。皇后はFEPOWsのことをたいへんお心にかけておられました。そして多くのことを訊ねられました。また日本兵と英国のFEPOWsとの出会いをたいへん喜ばれました。

    アガペは主なる神にたいへん感謝しています。またさまざまな形でアガペを支援してくださる皆様に心から感謝しています。皆さんの援助なしにはFEPOWsと日本人との間には和解も心の癒しもありえないからです。

今日は私をお招きくださり本当にありがとうございました。

 

誰が和解に想いを馳せたか
W.バウマン 罪償と和解財団

    ある物語りから始めたいと思います.

    昔あるところにお父さんがいましたが、その家族は大所帯でした.このごろどこにでもあるような平均的な家庭ではありません.現代はみんな忙しくて、父親が仕事をもっているだけでなく、母親もどこかのコーラスのメンバーだったりしますから、子守を頼んでいた人がまだ来ない、いちどはっきり言っておかなきゃ、ヤン、犬を散歩に連れてって、お父さんはもうすぐにでも出勤しなきゃ、ルース、ミンチェの世話を頼んだよ、もう出なきゃ、それからヘンク、ヘルディンチェを頼んだよ、お馬鹿さん、お父さんが遅刻したらおまえのせいだよ、なんてことになります.

    いいえ、この話しに出てくる家庭はこんなんじゃありませんでした.お父さんは夢にまで見た女性と結婚し、その妻とともに家族のことにはなにからなにまで心配りをしました.二人の間には、一人また一人と、ときには二人一緒に子供ができ、十二人の子宝にめぐまれて、彼は子孫に、そしてことのほか妻に満足しきっていました.

    その子たちも一人また一人と成人して親許を離れ、ある者は遠くに、またある者は近くに住んでいましたが、それでもちょこちょこ帰宅しました.一人のこともあれば、友達と一緒だったり、妻や夫とだったり、幼い子供同伴だったりしました.かつての古巣にはいつも彼らを迎える場所があり、二十人分だって食べるものがあり、親の無限の愛と関心が向けられました.しかし、最愛の妻が病を得て、看病の甲斐もなく、亡骸を墓地までみんなで運んでいかなければならなくなりました.妻、母親と別れたあとには、想い出だけが残りました.この想い出を身近なものにしようとして、父親は妻の使っていた椅子、指輪、手製の掛け布団、一揃いのスプーン、ちょっとした調度品、絵画などを子供たちに分け与えました.十二人の子供とその家族の一人一人にやりました.あとに独り取り残された彼は長い夜の寂しさを勇敢にじっとこらえようとしましたが、内心の寂しさはいかんともし難く、涙が静かに頬を伝って流れ落ちました.始めはまだそれほどでもありませんでしたが、そのうち家のなかはひっそりと静まりかえりました.子供たちに様子をきいてみても、言葉を濁してはっきりした返事はしませんでしたが、完全に曖昧というのでもありませんでした.かつてはあれほどまでに固く結ばれていた家庭だったのに、嫉妬心が忍び込んでいました.猜疑心、ゴシップのおかげでかつての家庭はすっかり荒れすさんでしまいました.彼の方からどれほどに愛を示してもなんの甲斐もなく、彼の傷心は深まるばかりでした.

    子供たちはそれに気付いていなかったかもしれませんが、父親は傷心のうちに死んだのでした.一生、彼らを愛し続けたはずなのに、それも最後にはだめだったのです.彼が世を去ってはじめて子供たちはなにがあったのかに気付きました.後悔、罪悪感が残り、もうけっして昔のような関係は戻ってこないように思えました.

    しかし、父親の遺書を開けてみたとき、ひとつの解決が示されました.あれほどの苦悩のなかにありながら、父親は解決策を考えていたのでした.遺書の言葉に聴き入っているうちに、集まってくる前には心にたまっていた嫉妬心、猜疑心、羨望心が雲散霧消しました.すこしぎこちない口調で長男が、「ぼくのことを許してくれ」と言うと、同じことをみんなが次々に言い、号泣し、自分の落度を互いに認めあい、言うべきを言ったとき、彼らの心には再び愛が戻って来て、この日を大いなる和解の日と名付け、自分たちの慣習にのっとて羊を一匹屠り、一緒にその肉を食べました.この契りのしるしとして羊の血を右の親指に塗りました.こうして右手が平和を象徴するようになり、毎年、その日には一族郎党が一同に会して、互いに平和の挨拶を交します.また愛をもって祝福し合います.

    さて、演題にもどりますが、この話しからいくつかの結論を引き出すことができます.

    第一に、あらかじめ考えてあったにちがいない、ということです.ここから、第二の結論が出てきます.もしそうだとすると、さきざきなにか問題が起こるという可能性を考慮にいれてのことであったにちがいない、ということです.

    この話しに出てくる父親は理想的な父として描かれていますが、彼には外からはあまりはっきりと見えないもうひとつの特色、すなわち賢明さと洞察力とを備えていたにちがいありません.

    この父親が嫉妬心、猜疑心、ゴシップなどなどの人間の弱さがどういうことをしでかすかを知っていて、あらかじめ適切な処置を考えておいていたのです.

    この話しでもうひとつ面白いのは、家庭内に問題が発生した瞬間にただちにその処置を取らなかった、ということです.父は、子供たちが自分中心の態度や行動によって自分たちがどんなひどい目に合うことになるかをはっきり自覚できるよう、自分が死ぬまで行動を控えていたのです.彼の死後はじめて彼らが目覚めるようになるまで待つことによって、無条件の愛、徹底した献身の模範を彼らのために残しておこうとしたのです.

    この話しの素材になっているようなことは現代でもどこにでも見当たるのですが、この話しは私たちの日常の生活にどうかかわるのでしょうか?忙しい、せわしい現代人の毎日はみなさん先刻ご承知のとおり、職場だけではなく、家庭、夫婦間のやりとり、至るところにみられます.私たちの人間関係はこういった傾向におおいに影響されています.否、子供、夫、妻、同僚、友人、神との関係が欠如しているとすら言えます.嫉妬心や、羨望がどれほど私たちの人生を毒していることでしょう.ソロモンによれば、「穏やかな心は身体に良いが、嫉妬心は骨をむしばむ」と、いいます.嫉妬心はゴッシプ、猜疑心、恨み、憎しみに道を開きます.それがために、私たちの心は劣等感と誇りあるいは傲慢の間を揺れ動きます.不満や不安のみならず、その他、癌だの腫瘍だのありとあらゆる疾患のもととなります.職場や公生活においてのみならず、友人同志、家庭でも人間関係を破壊します.そういう感情は他人に向けられていると思うかもしれませんが、自分に投影し、他人よりはまず自分の方がその犠牲になります.

    これの影響、能力を思いますと、それとかあれとか言うよりは、むしろ彼女とか彼とか人格的な存在として捉えるべきではないか、と思えます.その者は目にこそ見えないかもしれませんが、その作用は不可視どころではありません.そういう実体は霊と呼べるかもしれません.血の通った生身の人間に対する霊です.こういった、手足のない実体のもうひとつ困った点は、自分には宿っていないけど、他人には宿っているようにみえる、ということです.そういう実体は自分の方からすすんで姿を見せるわけではないので、その存在にすっかり気付かずにすますことがあるのです.ソロモンは彼の箴言のひとつで「無知な者も黙っていれば知恵があると思われ、唇を閉じれば聡明だと思われる」と言います.こういう霊的実体はたえず、宿るべき、生きた実体を探していて、それなしには生きられないことは一般に知られています.精神主義、新興宗教、ニューエイジなどがその格好の例です.その対象は木、家、動物、人間、いろいろです.人間が動植物や物の上に立つ、ということでこういった霊的実体が一番宿りたがっているのは人間のようです.

    でも、人間はだれしも生まれつき何らかの形で神様に守られていますから、そうやすやすとだれにでも宿れるというわけにはいきません.この神からの保護の網を破ろうとして、人間を惑わそうとあの手この手を試みます.人間の頭に間違った考えを植え付け、それがまるで自分の考えであるかのように思い込ませます.人間は自由意志をもっていますから、この武器をうまく利用すれば、入ってくる思想に納得して受け入れることも、あるいは排斥することも出来ます.一旦同意して受け入れると、もっと他の、しばしばあまり好ましくない思想が入ってくる可能性が生まれ、戸がおおきく開いていると、霊そのものが入ってきて、その人は二重人格者になります.たいてい自分では意識していなくても、他者には分かります.

    最初の話しに戻りますが、父親が編み出した解決策が何であったのかは言われていませんが、子供たちがお互いに許しを求めあったことから少しはわかります.許しを求めるということは、身を低くするということです.イエスは「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる」と言われました.高くしてくれるのは他人であって、自分でするのではありません.侮辱されたり、軽蔑されたり、軽視された人に許しを乞うときにはかならず自分を低くするということが伴います.他人の物や尊厳を傷つけたり、返すべきものを返さずにおいたような場合も、改心が伴わなければなりません.改心とは単に「すみません」と、言うだけのことではありません.改心とは相手から奪ったものを返済し、その後の態度、行動を変えることです.

    しかし、負債、負い目はかならずしも一方だけに帰することが出来ないので、実際には事はこれよりはすこし複雑になります.ために、容易に引き分け、「おあいこ」ということになります.これは、自分よりは相手側の責任のほうがよく見え、だれかが腰を低くしなければならないとしたら、それは向こうだという、だれにでも有りがちな態度にも関係しています.

    かててくわえて、悪は世代とともにひどくなっていく、という面があります.親の悪は子供に受け継がれ、チャンスさえあれば子はその悪に上塗りをし、次の世代に伝えていく、という図式です.それに悪の増加は世界の人口増加に比例しているようで、場合によっては比例以上に伸びることすらあるようです.社会的、経済的に優位に立っているがゆえに、自分の領域を拡張する可能性があると、自分の領域外で蒙るストレスを解消するためにその領域を必要とするということになります.しかし、世界の人口が増加すると、いよいよもってプライバシーが犯され、それがまたストレスの増加を招来します.

    これを要するに、精神病関係の専門家が口を酸っぱくして言いますように、人間は独力ではこのしがらみから脱することができないのです.外からの助けが必要になります.しかし、満足のいくような援助の手を差し伸べ、将来に対する対策を供することの出来るような人がどこにいるのでしょうか?自分でしでかした過ちを処理するのに忙殺されることなく、自分に援助を求める人に時間と勢力を集中できるような人がどこにいるでしょうか?援助者、助言者として手本を示してくれることができるだけでなく、私たちに乗り移った第二の人物から私たちを解放して、私たちを敗北者から勝利者に変えてくれるような人です.私たちを助けようとどこかはるかかなた、手の届かないところで、私たちがなんとかして這上がって来るまで待っていて下さる方ではありません.だれが私を救ってくれるのでしょう?

    もう一度先ほどの話しを考えてみましょう.父親はだれを象徴しているのでしょう?道を過った子供たちはだれのことなのでしょう?自分を最大の人間に祭り上げていたあの子たちは?あの父親は神だったのでしょうか?

    神はその知恵をもって計画を練られたのでしょうか?

    神は将来起こるであろう事を予知されたのでしょうか?この宇宙が出来てこのかた一切を用意された御方.

    次の聖書の箇所はだれのことを言っているのでしょう?「主は、その道の初めにわたしを造られた.いにしえの御業になお先立って.永遠の昔、私は祝別されていた.太初、大地に先立って.わたしは生みだされていた.深淵も、水のみなぎる源も、まだ存在しないとき.山々の基も据えられてはおらず、丘もなかったが、わたしは生みだされていた.主が天を広げられたとき、私はそこにいた.主が大地の基を定められた時、みもとにあって私は巧みな者となり、日々、主を楽しませる者となって、たえず主の前で楽を奏し、主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し、人の子等と共に楽しむ.さて、子等よ、私に聴き従え.私の道を守る者は、いかに幸いなことよ.諭に聴き従って知恵を得よ.なおざりにするな.わたしに聴き従う者、日々、わたしの扉をうかがい、戸口の柱を見守る者は、いかに幸いなことよ.私を見い出す者は命を見い出し、主に喜び迎えて頂くことを得る.私を見失う者は魂を損なう.私を憎む者は死を愛する者」.

    ここで著者は、「私は道であり、真理であり、命である.私は戸であり、私を通してでなければだれしも父のもとに到達できない.私は世の光である」と言われた方のことを語っているのでしょうか?ナザレのイエス・キリストがオランダ、日本、あるいは世界のどこの国の人でもかまいません、頑固な子供のために父が考えてくださった解決策なのでしょうか?彼の死と復活ゆえに私たち個々人、私たちの家族、私たちの祖国の犯した過ちと欠点の処理が可能のでしょうか?

    彼が完成して下さった御働きゆえに嫉妬心、猜疑心、反逆、不従順、劣等感、誇り、破壊、死の問題の解決が可能でしょうか?

    確かに可能です.

    父なる神が練って下さった解決策により、私たちの心はお互いに対する愛、父なる神に対する愛を取り戻すことが出来ます.神は死んではおられません.生きておられます.日本人であれ、オランダ人であれ、あるいは何国人であれ、私たちは彼の子として一緒に神の前に進み出て、「父よ、私たちはあなたを愛します.私たちはお互いを愛し合っています.イエス様、父なる神の解決策を実現して下さって有難うございます」と言う事が出来ます.

   そして、私たちは共同で、この世の人々に向かって「父なる神は解決策をお持ちです」と宣言することが出来ます.ヨハネはこう言っています:「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して下さって、その御子を私たちの罪の贖いとして送って下さった」.

    私たちはどうすればよいのでしょう?

    父なる神の解決策を受け入れ、愛が私たちの心を満たすように私たちの心と思いをきよめることです.そうです.私たちの決意次第なのです.

 

閉会の辞
C.E.ミヒエルセン・バルヨン 

    お互いの立場をより良く理解するために、平和を目指して唯一なる父なる神の子としてすでに二度の会合に出席しましたが、今日またこのようにして三度目の会合につらなることができることは私にとって大きな特権であり、これについては村岡先生にはお礼の言葉もありません.

    奇異に聞こえるかもしれませんが、50年ぐらい経ってからでしたでしょうか、なんとはなしにある日突然、戦争中のことを振り返ってみることにしました.悲喜こもごも、苦労のかずかず、悲しみなどがその半世紀にはうずたかく積もっていました.ともかく、来る日も来る日もあれやこれやと目が回るような忙しさで、その日以外にこういうことを考える時間の余裕がまったくなかったのです.

    いろいろな病気だのその他の不自由から解放されてからは、家族での生活を楽しみましたし、二人の娘は学校生活、勉強が楽しいようでした.私にとって大きな転機が訪れたのは、主人が他界し、わずか5か月して長女と死別したときでした.深い悲しみの淵から這い上がれたのはそれから三年ぐらいしてからでした.私が戦争中のことを、先ほど申しましたように、なんとはなしに振り返ってみることにしたのは、そのときでした.オランダをあとにしたときのこと、蘭印での日本軍の強制収容所入り、戦後オーストラリアで過ごした半年、帰国してからのはじめの数年の難儀.

    私は新聞広告を出して、蘭印での最後の10か月、ストラウスワイクの婦人収容所の台所で一緒に働いた同志の集まりをしました.28才で最年長の私は台所の責任者としてこの若い婦人たちと共同作業にあたり、すばらしい体験をしました.年金交付局の援助を得てライデンで開催した展覧会のおかげもあって、この集まりは年々雪達磨式に大きくなっていきました.

    何回となくもたれた会合や、はてしもない文通を通して、とくに4才から8才までの幼児にもうすこしいろんなことを知らせてやる必要のあることが私にははっきりしてきました.この子たちは数年のあいだにいくつかの収容所をたらいまわしさせられ、終戦、それに続くインドネシア独立闘争の不安な時代を通って来ていたのです.収容所時代はまだほんの幼年だったので、そのころのことをそうはっきりと覚えているわけではありませんでしたが、それでもいろいろ見聞きしたことは記憶のどこかにしっかと残っていて、その後の生活のなかで人知れず不安に苛まれていました.大抵の母親は戦時中のことには口をつぐんでいたのですが、これが若い子たちにはよくなかったのです.私の長女もその記憶のなかに空隙があって、答えのみつからない疑問と苦闘していました.やっとそのころになってこのことに気付いた私は、まさしくその若い人たち自身に促されて、彼らにとってこの未知の時期になんらかの光を投じたいという願いから、戦時中の体験を出来る限り客観的に記録し、一冊の本としてまとめることにしました.私はこの参考書とも、自伝とも言えるものを二人のわが子と、ストラウスワイクの子たちとに献呈しました.読者の反響もよく、これは同時に私自身の過去の整理でもありました.

    この本の出版後、私は出来るだけいろんな書物、ことに日本人の著者のものを読むように心がけましたが、そのおかげで、彼らの背景や戦争体験を知るに及んで、全く新しい世界が私の前に開けてきました.広島の病院のHachiya Michihiko博士の「広島日記」を読んで、私は大多数の犠牲者に対する深い同情の念を禁じ得ませんでした.「戦争はもう二度とくりかえしません」という願いはいつの日にか実現するのでしょうか?

    友人のアドリ・リンダイヤさんを通じてドルフ・ウインクラさんの蘭印日本軍収容所体験者の団体を識るに至り、98年にはじめて日本を訪ねました.私は、昔の収容所長に私の方から和解の手を差し伸べるためにこの一団に加わることに決めたのです.私たちのいた収容所は、その所長のおかげで例外的に条件がよいほうでした.残念ながらその彼自身はもう他界しておられましたが、遺族とはじっくり話すことができ、あの安達氏が戦時中のことについてはほとんどなにも家族の方に話しておられないことがわかりました.沈黙は私たちのほうだけでなく、あちらも同じだったわけです.YWCAや日本・アジア婦人リソースセンターを訪ねてみて、婦人たちの働きぶりがよくわかりました.日本の婦人たちがひじょうに能率的に、また精力的に働いておられ、祖国のために有用な貢献をしておられるのに非常な感銘を受けました.東京で非のうちどころのないオランダ語を話される外務省のAkashi MiyokoさんやNishimura Yumiさんと会ってこの印象を一段と強くしました.

    昨年は、またもやリンダイヤさんに言われて、所謂「江戸参内旅行」なるものに参加すべく再度の日本訪問となりました.日本の文化や地理についての知識をさらに深めたい、という願いをかなえるためでした.私の得た印象をアドリアーン・ヴァン・ディスの面白おかしい「日本の戦の道筋」と比較してみますと、私たちオランダ人の遠慮のない不躾さが外国、ことに欧米以外の土地では私たちの最大のマイナス点になり得ることが、歴然としています.99年にアムステルダムで開催されたオランダ戦争資料研究所主催の展示会の席上お会いした、背の高い、魅力たっぷりの日本の大学教授中尾知代さんのことも何度か話しに出てきます.平和と和解に対して深い関心を抱く心の暖かい女性です.

    いいことは三度もあるというのでしょうか、またもやリンダイヤさんから、今度は2000年7月27日にヴオールトハウゼンで日蘭対話の会合があると教えていただき、早速申し込み、村岡先生主催の第一回の会合の末席をけがすこととなりました.出てみて、キリストによる平和の道を探ろうとする人たちのなかに自然に溶け込むことが出来ました.その次の会合もそうでしたが、毎回、忌憚のない意見の交換を通じていろいろなことがはっきりしてきて、互いに歩み寄ることが出来るようになりました.今日、6人の方のお話しを伺って、その証し、今日の主題についての学識のおかげで、私たちの知識もいま一段と深まったように思います.将来にとってとても貴重な貢献をしてくださいました.過去の戦争の歴史の記述の仕方に改めるべき点があるとすれば、その道を避けて通ることは許されません.歴史を隠しだてしないことに私は大賛成です.若い世代は正確な歴史を知る権利をもっています.

    私は、私に対して善意をもって接して下さった方、友情の手を差し伸べて下さったすべての方々に、またこの対話が持続できるように熱意をもって努力し続けて下さっている村岡先生とその奥様に心からお礼申し上げます.   私は、私たちがこうして辿っている道筋の正しいことを信じて疑いません.それだけではありません、神様が私たちと共にいてくださいます!

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