第11回会合 2007年9月22日ウーフストへ−スト
タンゲナ由香里
本日は、皆様、日蘭対話の会にようこそいらしてくださいました。今日も、共に、よき交歓のときがもてますよう願っております。
私は、第二回のこの会合で講演をさせてもらいました。以来この会も、もう11回目を迎えました。この間、実に多くのことを学ぶことができました。その中で、私にとっては、耳をおおいたくなるような講演も少なくありませんでした。しかし、政府が「従軍慰安婦」の存在をいまだに否定しようとしたり、歴史教育がきちんとできない国の国民として皆様とお会いしお話しをするということに、大変深い意義を見出しております。勿論私は、日本政府の人間ではありません。しかしながら、皆さんの私の国を思うが故の憂いを聞いたり、話し合ったりすることで、私もとても力づけられます。いつもこの会が終わってブラーバントの我が家に帰るとき、私の心はとても暖かなもので満たされています。
今週は奇しくもキリスト教会では平和の週、として特別に平和を考えそのために祈る週と定められています。誰もが平和を希(こいねが)っています。私はここに来ることもその実現のための一歩だと考えています。
戦争に限らず、私達の毎日の生活の中でも争いや対立が日常化しています。ひとたび起こった対立は、その矛先が自分に向かわない限り解決の糸口が見えないものです。そこには常に自分は悪くないというエゴがあります。
こんなことがありました。インディッシュ モニュメントの前で開催された太平洋戦争戦没者のための60周年記念式典にこの集会で出会った友人と共に出席したときのことです。このモニュメントのお掃除をしている高校の生徒がスピーチの中で「インドネシアや日本の犠牲者のためにも、思いを馳せる。」とはっきり言いました。また、今年の8月15日の戦没者記念礼拝で、「この収容所にずっといたいの。いいでしょう?」の作者、ファンラールテさんが「連合軍だけでなく日本軍の兵隊として、父親が戦争の前線に赴きそれが一生の別れとなってしまった罪のない子供達」のために祈られました。こういったことを通して、私は希望を見るのです。そして、希望を見るとき、私達は夢を描くことができるのだと思います。そして真の平和を夢みる人は自分のエゴが小さくされ、争いの解決を見ることができるのではないでしょうか。
地球に平和が来ますように。それを先ず私から始めさせてください。
きっと今日も私達は希望を見ることができるはずです。
では、この一日が皆様にとってよい思い出の日となりますよう。
リディア・シャゴル(訳: 村岡崇光)
第一期:1901ー20 (最初の20年)
1901年生れの昭和天皇は祖父と皇室に指定された養育を受けました。両親とは別れて、伯爵川村純義夫妻の許に預けられ、その御用邸で極めて厳格な、伝統的しきたりによって養育されました。
幼少時から、将来は天皇の座に就くのであることを教え込まれました。すでに幼稚園生の時から、自分が特別の人間であることを絶えず自覚させられました。精選された少数の友達にもそのことをはっきりさせました。上流階級の子弟だけが通う学校に出ている時も、学友たちが自分を将来の天皇として尊敬を払うことを当然のこととして受け止めました。例外は許しませんでした。何年か後に、5人の学友と軍事教練を受けることになった時もそうでした。自分の位に相応しい尊敬を彼等から毎日受けることは全く当たり前のこと、と思っていました。
これも精選された彼の教師達によりますと、彼は申し分のない、勉強熱心な生徒だったそうです。学業の方は問題なかったのですが、運動となると、虚弱なところがあって当初は大変だったようですが、努力と頑張りのお陰で多くの障害を乗り越えることができたと言われます。
青年時代の昭和天皇は極めて限られた、閉鎖的な上流社会で育ちました。生身の人間としての生活については最小限必要なこと、つまりほとんど何も知らなかったのです。自分の臣民について知ることはさらに少なくありました。しかし、日本の歴史、先代の天皇家の歴史、神道の歴史とそれにまつわる一切の儀式、宮中でのありとあらゆる規則の由来はしっかりと教えられていました。
昭和天皇は、若い頃から祖父の明治天皇を崇敬していました。日本の皇室の改革者であった明治天皇は、1889年に憲法を導入しました。しかし、国会があったのに、国政の実権は彼が握っていました。その結果、天皇がすべての権利を享受し、国民がすべての義務を負う、ということになりました。さらに、明治天皇は、自らが統帥権を握る軍隊の新体制についても極めて明確な方針を定め、開戦、講和締結にあたっても絶対的権限を持ち、また日本の学童の教育についても明確な方針を打ち出しました。軍隊も教育もこれからは完全に儒教精神に則ることとなりました。つまり、上下関係に基づくところの権威、服従の倫理、義務の遂行、親、上司、政治家、そしてなによりも天皇に対する臣民の尊敬に関する規律の厳守が確立されました。上下の関係を重んじること、服従の精神は、日本人すべてが若い時から当然のこととして教えられた、すこし荒っぽい表現ですが、詰め込まれることになったわけです。
明治天皇による厳格な方針、国民の日常生活をも規定する厳格な方針が出されて、同天皇が逝去して1年後の1913年からから若いインテリも社会の上層市民も思想の自由、個人の尊厳といった民主的世界観を喜びました。ついに、あらゆる分野においてこれまで以上の自由が享受できるようになりました。残念ながら、これはつかの間の喜びに終わりました。
民主主義の概念は裕仁天皇によっても大変重んじられたようです。もっとも、このことは戦後になってはじめて明らかにされ、そのことは大いに喧伝されました。戦前ではなく、戦後分かったのです。19歳の時の長期に亘る欧州訪問の際に将来の天皇として開眼した民主主義でありました。
第二期: 1921ー26 (重要な6年)
明治天皇の後継者の息子は幼時、湿疹に罹った時の治療が思わしくなく、健康に恵まれませんでした。1921年、大正天皇はこれ以上天皇として機能することが無理と判断され、そのとき20歳の皇太子が摂政として立てられました。摂政として、彼は皇族の指導者となり、自分の近親者と皇族の上層部が国内の枢要な地位につくように配慮し、枢密院のメンバーを任命し、軍隊の移動の決定にあたっては一切の権限をもっていました。この最後の点が意味するところは、指導的な立場に立つ軍の上層部は裕仁を眼中に置かなければならない、ということでした。つまり、極端な形の国粋主義と、それに関連する人種差別が重要な役割を果たす摂政政治でした。若い時に将来の政治家として、軍人として受けた訓練が開花する機会がめぐって来ました。
その一つの例として、1923年、摂政は歴史上最悪の地震の一つに遭遇しました。真昼間に襲ったこの地震は東京を炎の海に投じました。大多数の家屋は木造でしたし、時間が時間であったために、昼食を準備しようとしていた家庭の台所は火の海となりました。13万人以上の犠牲者が出ました。この天災は、多数の左翼系の市民や四千人以上の朝鮮人の所為だとして、むざむざと惨殺されました。外国人排斥を含む新しい風潮、自主性のない群集心理がどういう危険を孕むかが分かります。
もう一つの例ですが、1925年、摂政は「危険思想の持ち主」に関する法律に署名しました。具体的には、これは、表現の自由が取り締まられ、天皇の道だけを歩むことが義務付けられる、ということでした。しかし、大逆罪に対しても、摂政、そしてやがては天皇に対しては一言でも不敬な言辞を弄することは許されないというのですから、そういう不埒な徒輩に対しては刑務所の門は広く開かれることになりました。絶対服従、世間と足並みをそろえるかあるいは弾圧のどちらかを選ばざるを得なくなったのです。この種の不行跡の所為で刑務所にぶち込まれた者は1945年8月15日より数カ月してからやっと娑婆の空気を吸うことができました。彼等がもっと早く釈放されなかったのは、この囚人達の政治的抵抗力が過小評価されたからでした。こうして、日本人の義務は大勢に逆らわず、天皇制を無条件で重んじることとなりました。
第三期: 1926ー31 ( 天皇としての最初の時期)
1926年の末、父大正天皇の崩御に伴って、5年間摂政を務めた若い裕仁は天皇に即位しました。裕仁天皇から昭和の年号が始まりましたが、「昭和」とは「輝く太陽」、「輝かしい和」、「光り輝く平和」と訳せるかも知れません。でも、だれにとっての太陽、和、平和なのでしょう?裕仁天皇になってまだ5年しか経っていなかったのに、日本の侵略戦争が始まります。彼の尊敬して已まない祖父、明治天皇が朝鮮を併合し、支那の遼東半島と台湾を占領したように、支那とその周辺に鉾先が向けられました。
1931年の満州事変で天皇の名によって日本がはじめた15年戦争の幕が切って落とされました。絶対主義、軍国主義への転換と好戦的な日本をより良く理解するためには、昭和天皇が国内で果たす役割を掘り下げて考察する必要があります。
明治憲法は、神聖にして犯すべからざる天皇に絶大な権力を付与しました。しかし、天皇は、明治天皇以来国教となっている神道によりますと、現人神でもありました。天皇は代々、太陽神である天照大神のじきじきの子孫であります。このように、天皇が神の子孫であるところから、ただ天皇だけがその地位故に神々や先代の天皇と言葉を交わすことができるのだ、とされます。さらに天皇は、神道の最高の神官である、ともされます。神道によって、日の昇る国は神々によって日本民族に賜ったものであり、したがって、日本民族は選民である、と国民は教えられます。日本は、明治憲法によれば、専政国家であると同時に神政国家であり、宗教人と俗人とを兼ね備えた存在である裕仁天皇の下では皇室、国家、民族の三位一体が実現したことになります。ここに軍閥が加わって宗教色濃厚な国粋主義が誕生しますが、天皇自身もそれをはっきりと自覚した上でのことでした。いくつか、関連したスローガンを引用しますと:
皇室: 現人神としての天皇に忠実に仕え、国土と国民を守るならば、これをもって人類に仕えること になる
国家: 日本民族は世界に革命をもたらすようにあらかじめ運命づけられている
国民: 日本に生まれたものは神から生まれたのである。われらは世界の最優秀民族である。
やんごとない方々によりますと、天皇は国政に非常な情熱を燃やし、有能で、しばしば自分単独の判断で行動し、かなりワンマンのところがあったそうです。終戦後になると、天皇は戦争にはあまり乗り気でなかった、ということが公式の見解として述べられました。憲法によれば、平和と戦争について決定する権利は彼の手中にありました。天皇が戦争に反対であった、という戦後の主張は、むしろ、戦争に負けることに対する昭和天皇の憂慮に基づいているのではないでしょうか?
明治天皇以来、古来の、宗教色の濃い「天皇陛下」という呼称が使われるようになりました。「天皇陛下」とは「天来の支配者」というほどの意味です。昭和天皇は、これからこの呼称をいつでも使用するように要求しました。彼はまた、この呼称がありとあらゆる賛辞に用いられることを自覚しています。一つ引用しますと:
「天皇陛下」という神々しいお名前は天皇に対する崇敬の念やるかたない日本国民の心を深く揺さぶります。国民は感涙にむせび、天皇陛下の神意を尊び、聖戦のために立ち上がりました。
第四期: 1932ー41 ( 戦争熱に浮かれた最初の10年)
日本帝国主義は十字軍になぞらえられることがあります。開始された「聖戦」は生存圏を拡張し、外国と産業、経済の面で立派に対抗していけるために必要な天然資源を獲得するためのものでした。
この「聖戦」を、他国からの妨害無しに遂行するために最も重要な対策の一つとして、国際連盟脱退が考えられました。1933年にそれは現実となりました。憲法によれば、国際連盟脱退は、昭和天皇の承認なくして実現することはできなかったはずです。
1936年以降、昭和天皇は公式の場では常に軍服姿でした。開戦後の8年間、日本国民は帝国軍隊の戦争目的と達成された戦果について、新聞、ラジオを通じて情報の洪水に襲われることになりました。
「支那の資源を手に入れたならば、われわれは、そこからさらにインド、南洋諸島、小アジア、中央アジアの征服に移ろう。神国日本の目指すところは日本を指導者とする、アジア人のためのアジアである。」
この軍隊が果てしもなく野蛮な行為に走ったことについてはここには一言も触れられていません。兵隊は沈黙を義務付けられていました。前線からの手紙にも、休暇での帰国中も残虐行為については一切語られませんでした。南京大虐殺についても同様です。25万人をこえる兵隊、老人、妊婦、子供を含む一般市民が殺害され、何千人もが拷問にかけられ、銃剣にかけられ、或いは生き埋めにされたのです。また、20万人の日本軍が3ヶ月に亘って攻略した上海の中国人民に対する血も涙もない殺戮行為についても沈黙が支配しました。1952年に米占領軍が日本を離れますと、南京については以下のようなことが日本の教科書には書かれました:
「日本側に相当な被害をもたらしたところの支那軍の激しい抵抗に遭ったために、日本軍は南京でかなりの軍人並びに民間人を殺害した。」
これは、15年戦争中の多くの犠牲者に対して日本側が行った、次のようなお詫びに似通っています:
「我々の武器に立ち向かって来たのは敵の方である」
これと昭和天皇と関係があるでしょうか?天皇は軍隊を支那に派遣する命令に署名しました。朝香宮を南京攻略の司令官に、松井大将を中支那方面軍司令官に任じたのも昭和天皇です。また、南京陥落後、両者を皇居に迎えて勝利に謝意を述べたのも昭和天皇でした。これは、戦地における出来事の一切について、日本の支那侵略に関する海外の報道陣が本国に送った情報をも含めて包括的に自分に報告するように軍の指導部に義務付けた天皇から彼等に対する謝意の表現でした。昭和天皇は戦場で起こっていることについて正確な情報を持っていたはずである、というのが私の結論です。
1937年の秋、日本の侵略戦争に関してブラッセルで「九カ国巨頭会談」が開催されました。日本軍による虐殺、破壊行為が議題にあがっていました。日本のやったことは行き過ぎであり、戦争遂行に関する慣行に違反している、というのが結論でした。しかし、日本はこれに耳を貸さず、そこで言われたことは一顧だにしませんでした。日本帝国軍隊は、支那、満州、その後占領されることになる幾つかの国においてこのような批判をも一切顧みない戦争、占領政策を実施して行きました。昭和天皇は、待ったをかけられたはずなのに、それを怠りました。天皇は憲兵隊による残酷な行為をとがめ、やめさせることもしませんでした。それどころか、天皇は、中国で憲兵隊司令官を務めた東條を陸軍大臣に、後には首相にまで任命しました。これは天皇からの報奨だったのでしょうか?東條大将はそう受け止めたようです。貴族院に対して次のように言っています:
「東條という名の男はしがない臣民の一人に過ぎません。皆さん以上のものではございません。唯一の違いは、私は、皆さんから国政の責任を委ねられた、という点に存します。私が他の人と多少とも違うとすれば、私が陛下の御信頼を頂いているが故に現在の職務に就いているというところにあります。」
1936年、日本は「日独防共協定」を、4年後の1940年には「ヴィシー・日本協約」を締結して、仏印に日本軍を進駐させました。同年、日独伊三国同盟が発足しました。これらは新体制の確立を唱え、反共産主義を確認し、日本とドイツが目指すもの、すなわち日本民族の純血と独自性、ドイツ民族の純血と独自性を目指すことを確認する国際的取り決めでした。また、ドイツのナチとイタリアのファシストと運命を共にすることを決定したことは、昭和天皇が、究極的には、アドルフ・ヒットラー総統並びにムッソリーニ総統のような独裁者の地位に立つことになったのです。上記のような国際的協定の承認は昭和天皇の署名なくしては不可能でした。日本では、これらの協定が調印された時、鉤十字のドイツ国旗と日本の国旗とを振りかざすために大々的に動員された群集が祝う姿が見られました。
第五期: 1941ー45 ( 第二次世界大戦への関与)
1941年12月、昭和天皇の承認を得て、真珠湾にほとんど全隊が集結していた米海軍の大平洋艦隊を空爆し、甚大な被害を蒙らせました。開戦布告無しの攻撃でした。天皇は東南アジアへの戦線の拡大を許可しました。目的領域の占拠にはしたたかな爆撃が先行し、一旦上陸、侵攻すると不必要な、大規模な殺戮が続きました。「万歳」の叫び声と共に、「海行かば」も歌われました。
海行(ゆ)かば水漬(みづ)く屍(かばね)
山行かば草生(む)す屍
大君(おおきみ)の辺(へ)にこそ死なめ
かへりみはせじ
軍国主義の宣伝デマは必要とあれば、こういった覚えやすい歌を生み出し、兵隊を鼓舞し、天皇、天皇とやたらと唱えました。天皇自身がそれに同調していたはずです。でなかったらば、そういう風潮に待ったをかけたでしょう。
「天皇陛下は国民を戦争に差し向けられた。私の義務は陛下に恭順を誓うことである。日本の使命は天皇の統治を四海の隅々まで広め、賞揚するにある。」
日本は東洋を西洋の植民地支配から解放することを欲しました。しかし、西洋帝国主義は日本の帝国主義によって完全にとって替わられました。現地人は奴隷のようにこき使われました。召集されて戦地へ送られた日本人の穴埋めとして、何千人もが日本へ連れて行かれました。これを要するに、現地人を完全に隷従せしめ、経済活動は日本のために稼動させられました。占領地の天然資源、農業、産業はこれひとえに日本のために利用されました。昭和天皇は、国民が「大日本帝国」とか「大東亜共栄圏」などということを口にする時、彼等が実際に何を考えているのかを知っていたはずです。ビルマ独立運動の闘志バーモウは日本の政策を次のように表現しています:「彼等にはただ一つの方法、すなわち日本的方法、ただ一つの目的、ただ一つの利害しかなかった。それは日本になにが利するか、であった。。。人種差別は日本の軍部と我々の地方の住民との間の誠意のある意志の疎通を事実上不可能にした。」
原住民たちは、ポスター、新聞、ラジオ等を通して日本の「善意」、天皇と日本のために生きることがいかに名誉なことであることを教え込まれました。
「日本国民は世界平和に対して負う責任を深く自覚している。日本は、天空にある太陽に比すべき世界の指導者である、と自覚している。誰一人、太陽と競おうという者はない。太陽と競合しようとすれば、雪が太陽に照らされて溶けるように、そういう人の運命ははかない。中天に太陽が二つないと同じく、地上にも天皇は一人しかいない。」
他方、原住民は脅されることもありました。たとえば、ジャワ島で発行された日本の新聞の特別号に以下のようなことが出ていました:
「君らが将来どういう扱いを受けるかは、これひとえに君らが皇軍にたいしてどこまで忠誠であるかにかかっている。命令に服しない者には厳罰が待っていることを忘れてはならない。かかる不届き者は惨めな池に投ぜられ、そこから這い上がることはかなわないであろう」
本国では、日本国民は、日夜を違わず戦争遂行のための心ぞなえをするために、以下のような、昭和天皇に関する、天皇御自身の裁可を得た文章を聞かされました:
「天皇陛下は日本国民の守護者である。国民は死してなお天皇陛下に忠である。国民は陛下の赤子(せきし)であり、国民は陛下を父と仰ぐ。古来、国民にとって、陛下のために死するは栄誉であり、国民は身を鴻毛の軽きに置いて陛下に御仕え申すのである。」
神官でもある昭和天皇自らが、旧満州のハルビン郊外に「731部隊」を設立することを認可しました。「関東軍防疫給水部」という隠れ蓑の下に活動したこの部隊は戦争捕虜や民間人を人間モルモットとして使いました。昭和天皇はけっして盲判を押したのではありません。天皇は、ナチスの強制収容所で行われた人体実験にも比すべきこの実験、帝国軍隊によって中国人に対して行われたこのむごたらしい生物学的、化学的実験を行った部隊のことを知っていたはずです。
すこし先走りするようですが、戦後に起こったある事件について述べます。東京で行われた極東国際裁判において、この713部隊の最高責任者であった石井四郎中将が裁判を受けなかったという事実は注目に値します。アメリカ軍は石井の実験報告書等を将来の戦争に備えて利用できる、と判断したのでした。事実、ベトナム人は化学兵器を使った戦争を身をもって体験したのです。日本国民は、天皇の軍隊に731部隊というものが存したことを戦後37年にして初めて知りました。日本にはかつての15年戦争に関してはどうやら記憶喪失が起こったようです。それは、昭和天皇の前歴を論じさせないためなのでしょうか?私はこのよう問をしばしば自らに投げかけました: 戦犯とは誰のことだろう?他人を殺す者のことか?他人の殺害を命じる者のことか?その名の下に殺人が犯されるその人間のことか?誰が戦犯なのだろう?
このことについて裁判をし、誰かに有罪を宣告するのは私の務めではありません。しかし、昭和天皇の下で行われた戦争に関して、たとえ死後であっても、戦争の経過の真相を明らかにし、真実を掘り出すところの国際法廷が設立されることを望んで已みません。今日の記憶喪失は受け入れることができません。これでは若い世代の手本にもなりません。
拙著「日本の裕仁天皇。忘れられた戦犯?」(疑問符に御留意あれ)から引用させていただきます:
「戦後数年して、原爆のおぞましい結果をみんなが実感できるようになった時、貴殿(裕仁天皇)と貴殿の国民は、日本人だけが第二次世界大戦の唯一のそして真の犠牲者である、ということを世界中の人に分かってもらおうとして最大限の努力を払われました。1931年から1945年までの戦争は、「日の昇る国」では、また外国駐在の貴殿の外交官たちによって以下の4日に集約されています:
1945年8月6日(広島に原爆投下)
1945年8月9日(長崎に原爆投下)
1945年9月2日(連合軍による日本占領)
1952年4月28日(サンフランシスコ平和条約発効。占領終結)」
日本が降伏した8月15日は現在、公式の追悼の日となりました。その日には日本の指導的立場にある人たちが靖国神社に集まります。そこには普通の戦死者だけでなく、第二次世界大戦中の人類に対する非行故に戦犯として有罪判決を受けた者たちの名前も刻まれています。現代の指導者達が靖国で敬意を表するのは主としてこのような戦犯に対してです。占領或いは併合された海外の土地の人々や、抑留所時代を生き残った犠牲者達にとってはあれからこんなに長い年月を経たいまでもやりきれないのです。死んだ父や母、配偶者、子供、兄弟姉妹にまたもや死の刃を突き付けられたような気持ちにさせられるのです。憲兵に殺され、過労死させられ、餓死、あるいは集団虐殺など、いずれも昭和天皇の名の下に行われた残虐な戦争の犠牲者なのです。生き残った犠牲者達が、たとえ過った理念のために戦死したとはいえ、日本の戦死者達のために敬意を表するつもりであるならば、戦犯として死刑になった者たちへの追悼はその近親者だけのことであって、公共の墓地の外で行われるべきものです。これは生存者にとってもやりきれないことなのですが、靖国神社は、ここ数年、昭和天皇時代の軍国主義者の後裔である右翼のメッカとなった観があります。彼等は民主主義には反対で、極東裁判の死刑判決は勝者による判決である、と臆面もなく主張し、問題の戦犯たちが犯した罪業を認めるだけの羞恥心も自尊心もないのです。8月15日に靖国で捧げられる敬意に対して問題を感じる、というような発言は昭和天皇からは一度もありませんでした。
1931ー45年の時期に戻りますと、42年のミッドウェイ海戦以来日本は攻勢から守勢に転じました。双方に相当の戦死者が出ましたが、日本側の犠牲はことのほか甚大でした。45年のフィリッピン並びに沖縄戦は激戦で、すさまじいものでした。沖縄戦は3ヶ月続きましたが、最大の犠牲者を出したのは沖縄住民でした。和を求める権限をもっている天皇は無為でした。彼の周辺には、多分戦争は終結させた方が良いのではないか、という意向を恐る恐る口にした者も数名はありました。しかしながら、天子様たる裕仁天皇の名において、新聞、ラジオを通じて、国民一人一人が国土を一歩たりとも譲らないで死守するように要求されました。
45年7月末、13箇条からなる降伏の条件をつけた「ポツダム宣言」が日本側に伝えられ、世界にも広く発表されました。最後の条項に、この宣言を受諾しない場合は、速やかな壊滅が待っていることを日本は警告されています。日本では、ポツダム宣言は軽くいなされました。政府も報道機関も「黙殺」を語りました。無視せよ、というわけです。宣言に対しては回答すら送られず、天皇も何らの行動も起こさず、従って、天皇自身「ポツダム宣言」を無視することに同意していたわけです。
8月6日、アメリカは強大な破壊力をもった原子爆弾を広島に投じました。しかし、日本は降参しません。二日後の8月8日、ソ連が満州に侵入しても日本は動かず、裕仁天皇も同様でした。最初の原爆から3日後の8月9日、アメリカは再び原爆を投下します。今度は長崎が標的でした。それでも日本はポツダム宣言を無視し続けました。そうこうするうちに、日本人は、いつものことながら、天皇の名において、敵と栄誉ある体当たりをして戦い、面目を失わずに降伏するように仕向けられました。このような、武士道的、勇敢な行為によって、連合軍側から条件付きの降伏を勝ち取れるはずだ、と上層部は説得にかかりました。
8月10日時点においてすら、日本は以下の4つの条件を出しました:
1)国体護持
2)外国軍隊による日本占領お断り
3)国内並びに占領地において自ら武装解除、除隊を実施
4)戦争犯罪は自国の法廷において処理する
日本人の考え方からしますと、以上の条件は極めて大きな意義をもっていました:
1)天皇はその特権を保持しなければならない、それは日本国民の願うところであり、国民はそれに慣れている
2)日本は、開闢以来外国軍隊に占領されたことはない、占領は面目上断じて受け入れ難い
3)武器を勝者に引き渡すことは堪え難い侮辱である
4)国家元首としての天皇には、憲法によれば、責任は問われない。元首は法廷の埒外に置かれている。それが天皇を裁判から守る唯一の可能性である。
連合軍側はこの4つの条件のいずれをも受け入れませんでした。日本軍と連合軍は、戦闘はまだ半年は確実に続き、双方に少なからぬ犠牲を強いるであろうことを自覚させられました。どちら側にも百万人の戦死者、というようなことが口にされました。誇張した宣伝でしょうが、双方に50万人、というのはかなりの現実味を帯びていました。
8月14日、天皇自ら決断しました。無条件降伏を発表しました。15日には天皇自らラジオでこのことを国民に説明しました。
日本は焼け野が原でした。東京は8割、広島、長崎は10割。他の都市も7割がたやられていました。また、日本は占領地から食料を運搬するための船舶をも欠いていました。食料危機は全国的に拡がっていました。戦場で、都市で余りにも多くの死者を出していました。甚大な破壊力をもったこの新型爆弾についての情報もただごとではありませんでした。類似の爆弾が皇居のある東京に投下されるのでしょうか?昭和天皇は、軍上層部の大多数の意見を押し切って、降伏を受諾したからには、日本をこの窮地から助け出す者となりたいと思っているのだろう、と国民は結論できたでしょう。
8月15日、天皇の玉音放送がラジオから流れて来ました。日本の庶民が天皇の肉声をじかに聞いたのはこれが初めてでした。天皇は古風な、みやびた日本語を使ったために、アナウンサーがこれを現代日本語に翻訳しなければなりませんでした。その日のうちに、御国のために尽くし方が足りなかった、降伏を決意するというお苦しみを天皇に与えたことを恥じて、何百人もの兵士が自らの命を断ちました。
拙著に全文を採録しましたこの長文の玉音放送において、天皇は二度も真実に反することを語っています。引用しますと:「他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ犯スカ如キハ固(モト)ヨリ朕カ志ニアラス」。では、大日本帝国はどこへいったのでしょうか?二つ目の誤謬は:「交戦已(スデ)ニ四歳ヲ閲(ケミ)シ」。本当にそうだったでしょうか?各地の領土を占領し、これを保持するための激戦は14年続いたのではなかったでしょうか?
降伏後19日してやっと1945年9月2に日本に占領軍が進駐して来ました。相当数の重要書類を処分するにはたんまり時間があったはずです。ジャワ島各地の日本軍の抑留所では降伏の報は8月15日よりずっと遅れて届きました。もっとも、占領地の日本人司令官全員が8月20日に以下のような通知を東京の軍務局から受信しています:
「敵が入手したならば我が方にとって不利になる虞れありと認められる書類は極秘文書と同様にこれを扱い、一見した後、処分すべし。捕虜或いは抑留者を虐待せし者、あるいは彼等によって著しく不利な立場に立たされる可能性のある者は、即刻移動するか、あるいは痕跡を残すことなく逃亡することを得る。」
昭和天皇は捕虜収容所や民間人抑留所の存在したことを知っていたはずです。さらにまた、昭和天皇は、捕虜や抑留所の民間人はすべからく非日本人、野蛮人、外人と看做され、また帝国軍隊の兵士達によって塵芥に等しいものとして扱われたことをも知っていたはずです。昭和天皇は、どうしてこういったことに一切関心を払わなかったのでしょうか?無関心でしょうか?無関心な人程危険な人間はありません。
第六期: 1945ー89 ( 天皇逝去までの戦後の長い時期)
ドイツとは違って、日本の占領は複数の連合国によってではなく、アメリカ軍単独で行われました。アメリカ大統領が相当の圧力をかけて勝ち取った方策でした。この大統領はマッカーサー将軍をこれも極めて意図的に占領軍最高司令官に任命しました。このお陰で、天皇自身も安泰、天皇制も安泰という結果となりました。
オーストラリア、中国、ソ連、英国、フランスいずれも昭和天皇を追訴しないというアメリカの決定に猛反対しました。オーストラリアから発信された電報には以下のように読めます:
「われわれは、天皇は国家元首として、また軍の最高指揮官として侵略行為と日本の戦争犯罪に対する責任を負うものという立場を堅持する。したがって、我々は彼の退位を要求する」
次の電報はこの立場をさらに明らかにしています:
「天皇に恩赦を付与することは許されない。」
しかし、米国は天皇を法廷に召喚せよとの連合諸国による要求を一切退けました。米国は別な策を練っていました。(1)秩序が崩壊した日本を混乱と無法状態に曝さないこと。天皇の名による命令に盲従するのに慣れていた国民は路頭に迷い、不安に悩まされていました。無法状態を避けるためには天皇は残らなければならない、というのでした。(2)日本が共産主義あるいは社会主義の餌食になることを防ぐためには、天皇が必要である、というのでした。(3)日本は、できるだけ早く現在のような憂慮すべき経済破綻から復興しなければならない、日本の経済と自由通商を再建するために必要な投資はアメリカにしか出来ない、というのでした。社会が安定していなければ投資は出来ないし、そのためには天皇に残ってもらわなければならない、というのでした。(4)日本の貴族、財閥、狂信的な国粋主義者、また日本国民の大多数に満足してもらうためには、天皇だけは残さなければならない、というのでした。(5)最後になりましたが、ここが肝心です。米軍だけが沖縄に巨大な軍事基地を維持する独占権をもっており、そこからアジアでの出来事を監視し、一旦緩急あれば、地域の紛争に介入することもできる、というのでした。その後の朝鮮、ベトナムのことを考えただけで、こういった米国の計画は次々と現実になって行ったことは御承知の通りです。そして、天皇はどうなりましたか?昭和天皇にとってはこんなうまい話はありませんでした。
天皇は、裁判は逃れられまい、と予想していたはずです。彼は、日本の戦争政策の立案に中心的位置を占めていることを自覚していました。彼は天皇崇拝を当然のこととして受け入れ、国民が天皇制の絶対権力を認めることを許しました。また、戦争が自分の名において遂行されることを許しました。また、国民が天皇のために、天皇の名において戦死することを許されていることを恩典と看做すことを許しました。天皇は占領地において何百万人の死者が出ただけでなく、日本国民の間にも何百萬人の犠牲者が出たことを知っていたはずです。マッカーサー元帥が彼を救ったのです。同将軍には左がかったもの、進歩的と名のつくものは一切肌に合いませんでした。彼は皇紀2650年も連綿と続く皇室にすっかり魅了された典型的なアメリカ人でした。巨大国としての本国の地位に酔った将軍でした。彼は米国経済の前進を願っていました。敵軍でかつては自分と同じ位置にあり、今は戦争犯罪に問われている東條に、裁判中は天皇に関して一言も不利な発言はままならない、ということを分からせました。昭和天皇が証人席に立たなくて良かったのは、これひとえに異論を受け付けないマッカーサー将軍に負うものです。これに感じ入った天皇は完全に、従順に協力しました。昭和天皇はアメリカが要求した方向に日本国民を指導しました。それでもたったの一度だけ、新憲法について苦情を訴えたことがありました。明治憲法は一言隻句も変じてはならない、というのが天皇の意見でした。しかし、新憲法の下、天皇はたちどころに一切の特権を失いました。天皇は政教分離を原則とする国の単なる象徴的存在に格下げされたのです。
日本国民が天皇の肉声を二度目に聞いたのは1946年正月でした。天皇の人間宣言、自分はもはや神に等しい存在ではない、という宣言でした。国民にとっては眼の醒めるようなこの発表はマッカーサー将軍の要請によるものでした。こういう言い方は不謹慎の誹りを免れないかも知れませんが、かつては神のお面をかぶっていた人が、今それを外し、天皇は自分を、また国民を偽っていたのでしょうか?私が、ことのほか知りたいと願うのは、昭和天皇が、自分が人間であるという自覚に達したのはいつだったのか、ということです。1945年より前だったのでしょうか?それとも1945年後はじめてそうなったのでしょうか?
日本国内向けに、また外国でも昭和天皇の顔を立てようとする米国の努力は今なお跡を絶ちません。神官天皇は軍閥の手玉に取られていたのだ、自分の意志に反して悪用されたのだ、という構図です。そうなれば天皇の責任を問うことも不要となります。占領時代のアメリカの影響で日本人は戦時中は天皇は無力であったのだ、とさんざんに説教されます。天皇は軍部によって過った情報を掴まされていたのであり、従って天皇に罪はない、というのです。国民も軍部によって正確な情報を提供されなかった、よって国民もこれ又無罪である、というのです。原爆は人間には到底立ち向かうことのできるようなものではなかったのだから、天皇も意気地なしだったわけではなく、国民はなおさらのことである、というのです。これを要するに、14年間に亘る戦争、あの苦難の一切、何百万という死者、これは一切合切軍部の責任である、というのです。昭和天皇はひたすらに地上に平和の来ることを希求していた、というのです。
無力な昭和天皇というアメリカの宣伝は功を奏しました。ひ弱で、平和愛好家、子供っぽいところのある天皇というイメージです。神様を体現したような人物、徹底した民主主義者、趣味に生きる人!学者としては海洋生物学に没頭される民主的天皇!1949年には天皇自身の筆になる海洋植物、生物に関する処女作が出版されました。その後も天皇の趣味とする題材に関する著作が9冊出版されます。戦後の天皇の公式の場での写真、ニュースに出て来る彼の姿は戦中のそれとははっきりとした対照をなしています。映画監督としての私の眼でこれを眺めますと、昭和天皇は、まるで職業的な俳優さながらに、自分に戦後あてがわれた新しい役を上手にこなしている、と言わざるを得ません。確かに平和愛好家に見えます。天皇と皇后陛下は外国の王族を接待し、過去はすでに消滅したかのごとく外国へ国賓として出かけることもありました。世界中どこへ行っても、こと昭和天皇に関する限り、完全な記憶喪失が見られます。
終戦直後、天皇は、自分は回顧録は絶対に書かないつもりであり、大平洋戦争については語らないつもりである、ということを第三者を通して明らかにしました。天皇はこの発言に忠実でありました。昭和天皇は、国賓としての何度かの海外旅行の際も、戦争中にもたらされた被害について遺憾の意を表することは只の一度もありませんでした。公式の発言の中にもそのことは一切出て来ず、1989年の死去に至るまでその線を貫き通しました。もっとも死の一年前に「私の名によって死んだ百八十万人のことを想うと今もなお心が痛みます」と語りしました。
またもや事実と相違します。天皇が日本人の犠牲者のことだけを問題にしたというだけではなく、歴史家ならば誰でも知っているように、14年戦争中の日本人の死者ですらこの二倍はありました。
最後に申し上げますが、私に憎しみはありません。復讐するつもりもありません。既に申しましたように、私が望む唯一のことは、彼の名によって行われた侵略戦争に関して昭和天皇を国際法廷で徹底的に裁くことです。最近、アメリカやフランスで出版された歴史関係の出版物を見ますと、昭和天皇が実際にどういう戦争政策を遂行したのかという点に関して疑問を抱いているのは私一人ではないことが分かります。日本人に関して言いますと、何年か前に私のバレー団に日本人のバレリーナを一人採用しました。この若い日本人に、彼の父親や祖父の世代が犯した過ちの責任を取らせることは絶対にしてはなりません。しかし、結論として申し上げますが、日本の若者たちが戦争中の歴史について率直に、客観的な事実を教えられることは人間的な生き方を涵養するのに必要であります。残念ながら、日本の初等、中等教育はまだそこまで行っていません。昭和天皇の下に行われた戦争は、日本では、いまなお克服し難い問題であるようです。なんとも遺憾なことです。
御静聴有難う存じました。
拙著:「わたしは誰の子?―――父を探し求める日系2世オランダ人たち―――」(東京、2006)に対する日蘭での反響
葉子・ハュス―綿貫、クラウディーネ・マサコ・メイヤー、ナニー・ゲレッセン
2002年10月、「日蘭対話の会・第5回集会」において、わたしと友人ナニー・ゲレッセンはわたしたちがその年の春に、もう一人の友人オルガ・ダオエスと三人で体験した日本の旅について発表させていただいたことがあります。
太平洋戦争中に日本人の父を持って生まれたナニーは本当の父親を知らず、しかもその日本人の血を引いているがゆえに継父から非道な扱いを受けた人でした。その彼女はこの旅で心の傷を癒すことができました。わたしたちはその貴重な体験をそのときの集会でお話させていただいたのです。
わたしは1994年にこのナニー、そしてクラウディーネやほかたくさんの日系二世オランダ人と初めて知り合いになりました。それはわたしにとって衝動的な出会いでした。というのは、かつて旧オランダ領東インド(日本語では略して蘭印。現インドネシア)が日本軍の占領地だった時代に日本軍人や軍属を父として生まれた人たちが、このオランダにたくさん住んでいること、しかも彼らが終戦後何年ものあいだ見知らぬ実の父親を恋しがって生きてきたという事実を、わたしは何も知らなかったからです。
そのときからわたしは、彼女たちの実父に関する情報を日本語に翻訳するなどの形で協力を始めました。そしてときには、彼女たちが思い切って打ち明けてくれることばに、耳を傾ける機会もありました。その内容はとても聞くに堪えられない悲惨なものであったり、また涙が出るほど感動させられるものであったりで、わたしはいつしか彼女たちのことばを記録に残しておくようになりました。
わたしの親しくする財団櫻は、日本人を父親に持つ「戦争の落とし子たち」の団体で、その理事会は1998年頃、仲間に「自らの生い立ちを文章にして、自分たちの歴史の証しにしよう」と呼びかけました。けれども実際それができる人はいませんでした。自分の体験したことを文章で表現することは感情が高ぶりすぎて不可能だ、ということでした。その頃わたし自身は、彼女らの存在をいずれかの方法で日本の人たちに知ってもらいたい、と思うようになっていました。1999年、財団役員の同意を得て、わたしは日本語で本を書く決意をしました。とはいうものの、素人の執筆活動はまったく思うように進まず、時間ばかりが過ぎていきました。そんな微力なわたしをいつも励まし、信頼しつづけてくれたのはこの本の主人公になってくれたナニー、クラウディーネ、彼女のお母様、そしてモリーでした。そのお陰で2004年末にやっと原稿らしいものができ上がり、その後幾人かの日本人の先輩方から貴重な助言や示唆を受けました。その時期わたしの恩師である難波先生が出版社を見つけてくださり、しかも原稿を構成の段階から入念に修正・添削するという大役を引き受けてくださったのでした。
2006年11月15日、足掛け7年もの歳月ののち、東京の出版社・梨の木舎から素晴らしい本「わたしは誰の子?」が出版されました(オランダ語の題名「Vader,wie ben je?」も同時記載されています)。これは日本での、日系二世オランダ人をテーマにした初めての著書となりました。
179ページのこの本にはすてきな表紙がつけられています。そこには三人の主人公の若い頃の写真がジグゾーパズルとしてデザインされ、それによって、まさにパズルを解くように展開する「彼女たちのルーツを探す旅」が象徴されています。その背景には、彼女たちと同じ日系二世のエルンスト・デュスハルトさんの描いてくれたオランダののどかな風景画が広がっています。
クラウディーネとナニー、そしてモリーは、戦時中日本軍の占領下にあった蘭印(現インドネシア)で、日本人の父と蘭印系オランダ人(インドネシア人とオランダ人の混血)の母から生まれた。父とは戦後すぐ生き別れとなり、そののち母に連れられて見知らぬ祖国・オランダに渡る。日本人の血を引く彼女たちは、本当の父の、愛情はおろか存在すらも知らないまま、しかも日本軍収容所体験者たちから「敵の子」として蔑視されながら、成人した。一九九〇年前後、子育てを終えた三人は自分が半分日本人であることを明かして、本当の父親を捜し始めた。「自分は一体誰の子なのか」、「父はどんな人だったのか」、「父は母を愛していたか」、「私は望まれて生まれた子どもか」、さまざまな疑問が頭の中を駆け巡る。本書は、ルーツを辿り人間としての存在価値を求める彼女たちの、心の旅の記録である。(本書裏表紙から引用)
3,1、著者からの報告
これまで読者のみなさまからとてもよい反響をいただきました。その多くはわたし自身の友人や知人からですが、中にはまったく知らない方たちからの感想も届いています。この場をお借りして本を読んでくださった方全員にお礼を申し上げ、さらに感想をお聞かせくださったみなさまには格別な感謝の意を表したく存じます。
さて、その反響の内容ですが、ほとんどの読者はまず、「日本から遠く離れたオランダで、戦争の悲劇と苦悩を今も背負っている日系の人たちがいることを、この本で初めて知り大変驚きました」と感想を記しています。日本の社会問題に深く精通するあるジャーナリストでさえ、このことについては初耳だったと話してくれました。日本では中国残留孤児の問題はさかんに取り上げられ、彼らの存在を知らない者はいません。しかし地球の反対側に「敵の子」と偏見の眼で見られながら生きている日本人のハーフが存在するという事実は、多くの人たちにとっては衝撃そのものでした。それでも読者は「そのことを知りえてよかった」と付け加えています。日系二世たちの存在と彼らを取り巻く問題は、拙書の出版により祖国日本の読者に鮮明な印象を与えたことは確かなようです。
幾人かの方たちは読書後の感想や意見をインターネットのサイトに掲載してくださっています。インターネットの影響が大きい現在において、サイトに推薦のことばを載せていただけるのは願ってもないことで、これが本の宣伝販売に大いに役立っていることに関しては疑う余地もありません。
拙書関係のサイトの一つはリヒテルズ直子さんによるものです。彼女はこの「日蘭対話の会」に欠かせない貴重な発言者のひとりです。リヒテルズさんには数年前拙書の草稿文について、厳格かつ教示的な助言をいただいたことがあります。「読者にとって読みやすい本になるように」と期待を込めておことばをくださったのです。その彼女は、著者のわたしよりも先に、インターネットに拙書の新刊紹介が掲載されていることに気づき、早速本を読んで、さらには感想をあるサイトに載せてくださいました。その内容は以下の通りです(サイト:みんなのHappyコミュニティ! freeml[フリー・エムエル] - メッセージ 教育の多様性の会):
(前略)この本は、とても丁寧にまた感情に流されることなく冷静に心の旅を追い、素晴らしい文章でつづられていますので、多くの方の感動を呼ぶことと思います。そして、きっと今の日本社会の姿を見ながら、多くのことを考えさせられることと思います。
私自身、日本の教育を少しでも私たち市民の手に取り戻し、人間らしい発達を次世代の子供たちに保障しなければならない、と強く感じ突き動かされるような思いになるその原点は、この本に綴られている方たちのライフストーリーや、日本軍の手で思わぬ人生の不幸を強いられたオランダ人のことです。戦争は、人間らしく生きている人々を不幸のどん底に追い込んでいきます。そして、その戦争は「人間」が始めるものです。
何より、この本の素晴らしいところは、著者が、それでも、自国日本の人たちを愛し、希望を見出そうとしている点です。私はそこにとても共感しています。日本をかつて軍国主義に追い立てて言ったのは日本人が野蛮であったからではありません。日本という国に、人間としての尊厳を保とうとする一般の人々が堂々と生きていける場が保障されていなかったからだ、と思います。今も、そのことがとても気になります。
どうか、一人でも多くの方に、本著をお読みいただけますように。
リヒテルズ(Naoko Richters)
リヒテルズさん自身も日本を心から大切に思っておられ、それゆえに日本とそして世界のよりよい未来のために全力をつくされている、尊敬すべき方です。
次にご紹介したいのはアマゾン(www.amazon.co.jp)に記載されているコメント(レビュー)です。アマゾンはインターネットで書籍などの販売をする知名度の高い大企業のひとつなので、このレビューが人の目に留まる確立はかなり高いと言えます。わたしたちの本のレビューを書いてくださったのは「風車番」というペンネームのオランダ在住の方です。わたしはこの方がどなたか存じ上げませんが、的を得たすばらしい評価を短いコメントとしてまとめてくださったことは、拙書の宣伝に大きな効果をもたらしてくれました。そのことをわたしたち関係者はとても喜んでおります。心から感謝申します!
その「風車番」さんが書いてくださったレビューは次の通りです:
日本人への暖かいまなざし, 2006/11/30
日本が関わった戦争の犠牲になった人は多い。しかし、日本人にとって戦争は加害であると同時に被害でもあった。それが、日本軍の横暴と、それについての日本人一般の戦争犯罪への意識を複雑にしている。この書は、日本人による、日本の戦争を取り扱った書にありがちな教訓的で怒鳴りつけるようなところがなく、あくまでも、いわれのない差別のまなざしの下で困難な生を強いられた女性3人の心の遍歴を彼女たちの苦しみに寄り添って丁寧に描くことで、かえって戦争に翻弄された日本人に対しても暖かいまなざしを注いでいる。それがこの書の強さであると思う。著者が訴えているのは、人間存在の尊厳であり、どんなに異常な社会が訪れても人間存在の尊厳を失わずに生きることの尊さであると思う。今、安易な「日本自我礼賛」「国家主義」がまかり通る中、日本人にとって考えるべきメッセージが多い。
この方はさらに本の評価として最高点の5つ星を表示してくださいました。わたしたちはそのことをとても光栄に思っております。
デン・ハーグにお住まいのある日本人女性は彼女のホーム・ページに以下のコメントを掲載してくださっています:
戦争は終わっていないということを、改めて考えさせられた一冊。これまで自分の出生を否定されつづけ、自分が何者であるかわからなくなっている彼ら戦争被害者の人たちにとって、唯一救いとなることは、こういった本や、講演会や、TV番組が、そういう人たちの存在を認め、彼らの人生が否定されているのではないということを少しでも多くの人たちの中で共有することではないだろうか。
この方がおっしゃるように、日系二世と彼らの持つ問題の存在を認め、そしてそのことを多くの人たちに知ってもらうことは、当事者だけに限らず、わたしたちの次の世代にとっても重要なことだと思います。この目的達成のために拙書広報の役割を担ってくださった新聞社や雑誌出版社があります。東京新聞(稲葉千寿記者)はそのよい例です。またこの本を読んだことがきっかけで去る7月にオランダに足を運び、財団櫻の会員に関する記事を終戦記念日前後の3日間にわたり連載してくださった北海道新聞ロンドン支局の記者おふたりの存在も忘れられません。ある女性は拙書の出版をある雑誌で知り、著者の名を見てびっくりしたそうです。彼女は偶然にもわたしの20年前の同僚でした。本の内容が興味をそそるものだったので彼女は早速10冊ほどを買い求め、他の友人たちに読んでもらったそうです。これもメディアがこの本を紹介してくれたお陰だと感謝しています。
実はあるサイトで、わたし自身がどきりとするコメントを見つけました。それは「教科書が教えない朝鮮の歴史4」に掲載されていました:
この本。。。結構良いよ。
笑えるとこはね、捕虜になったオランダ人に日本人を恨んでますか?って聞くと、俺は日本人に恨みは無い。今でも憎んでるのは、朝鮮人だ!! ってところかな。
なんでも、看守していた朝鮮人が、捕虜の時計を盗んでモメてたところを 日本人の上司が見つけ、看守をぶん殴って時計を取り戻してくれたんだと。
この方は拙書48ページの文章を指摘しています。本文には「憎んでいるのは朝鮮人だ」という表記はなく、「恐かったのは日本人じゃなくて監視の朝鮮人でね」となっています。しかし韓国と関係する人たちにとって、この記述は事実であれ心痛に値するものです。わたしは正直言って、そこまでの配慮はしておりませんでした。この方のように少しでも気分を悪くされた方がおられましたら、この場を借りてお詫び申し上げます。
これまでの記載でご理解いただけるように、この本の内容は、ほとんどがあくまでも個人的かつ繊細な問題に拘わるため、へたをすれば当事者や関係者に精神的被害を与えかねません。ゆえに執筆にはできる限り細心の注意を払いました。しかしそれでも、たとえばモリーの異母妹フジコさん(仮名)は、実の父親と自分たち自身が体験した過去をここまで赤裸々に綴る書が出版されたという事実を、ただ「とても複雑な心境です」と受け止めるしかありません。モリーは父の隠し子でした。1995年に父が見つかって以来、二人は手紙や電話で交信をはじめ、一年に一度は数日間をともに過ごし互いをいとおしみました。しかしこの二人の交流は日本の家族にはまったく秘密裏にされていたのです。父親が他界して数年後の2004年、モリーは初めて妹たちに紹介され、幸いにも異母姉として認めてもらうことができました。その後モリーとフジコさんたちの了解を得て、ことのなりゆきを本書の第1章と5章にまとめました。もちろんフジコさんたちご家族の身元が知られないよう慎重に配慮しました。その結果彼女たちは、父親が50年ぶりにモリーに再会できた喜びをよく理解してくれました。それでも気持ちは複雑すぎるのです。それはわたしにも痛いほどよく判ります。
この本の内容は重過ぎて、なかなか読めないという評価もあります。主題が「戦争の落とし子」ですから、恋愛やコメディをまじえた小説などと比べれば当然大差があります。それでも本書はさまざまな年齢層の読者を得ているようです。わたしの知る限りでは一番若い読者は15歳の女の子です。とても感動したらしく、「日系二世の人と直接会って話しをしてみたい。将来他の人を助けられるようなおとなになりたい」と希望を語っていました。18歳の少年は「一気に読んでしまった。知らなかったことなので衝撃的な印象を受けた」と話してくれました。彼には、学校の同級生たちにこの本を回し読みしてもらってほしいとお願いしました。それが実現すれば嬉しい限りです。
3,2、クラウディーネからの報告
さて、ここで本の主人公のひとりクラウディーネに、本書にまつわる自分の体験を簡単に語ってもらいましょう。
まずは、ナニーとわたしから、この対話の会の実行委員会のみなさんに、この発表の機会をくださったことに感謝を申し上げます。それからわたしたちの本の著者である葉子に太文字で尊敬の意を表したいと思います。時間はかかりましたが、それに値するすばらしい出来栄えの本となりました。そしてこの本の制作中、葉子を忍耐強く見守ってくれたご主人ヤンと娘たち二人にもお礼を言わせてください。
本の反響についてお話する前に、1991年と2007年の現在を対比するお話をひとつ。わたしは毎年数人の友人といっしょに、デン・ハーグで催されるインドネシア風バザール(大規模な青空市場)へのバスツワーを企画しています。対象者はスパイケニッセの町に住むインドネシア出身の方たち(蘭印系オランダ人)です。1991年のこと、会場入り口で参加者55人の入場を見届けたあとすぐに、気疲れと暑さから、わたしは近くの喫茶店の竹製のイスにドンと座り込みました。その後運ばれてきたコーヒーもこぼしてしまって「アーデゥ(インドネシア語の感嘆の表現。「あー、困った、情けない」の意味合いあり)、熱いわぁ」と蘭印人丸出しです。隣にいた鼻髭の白髪男性に愛想笑いを向けます。と、その顔に見覚えが・・。相手はわたしに見覚えがあるらしいけれども誰なのか思い出せないといった表情です。「ラルフ・ブックホルトさんでしょ?ムソンの・・」「そうです。で、あなたは?」
ムソンは当時唯一の蘭印人向けの雑誌で、初代編集長だった彼はその年わたしたち日系二世についての記事を書いてくれたのでした。わたしたちにとって、自分たちのことを記事にしてもらうのは勇気のいることでした。ましてや本名を出すことなど考えられもしない頃でした。それから時は留まることなく流れつづけ、今、すべてをまるごとさらけ出した本が出来上がりました。16年前とは何という違いでしょうか。ついその事実に眼を見張るわたしです。
さて本題の本書への反響を述べてみたいと思います。
今年度初頭の「かもめの会」の新年会に招待されたわたしたちは、そこで本を紹介させてもらい、また6月の「シルバーネットのバザール」ではこの本の販売の機会もいただきました。その後ナニーのところに本を読んだ人たちから電話が入り、「このような辛い人生を歩まれていたことを知り、心を動かされました」と感想が届いたのです。その中には学生や青年層のひとたちも含まれており、彼らはオランダ領インドが日本軍の占領下にあったときのことをほとんど知らなかったようでした。
日本からは、たとえばカトリック教会白柳枢機卿のお仲間の伊藤典子さんや、わたしたちが来日したときに知り合いになった方たち、そして元軍人の方たちからも、心温まる反応をいただきました。
わたしが個人的に耳にしたのは、本を読んでくださった在オランダ日本大使館の一職員のことばでした。彼は「こんな苦労をされていたことに、申し訳なさを感じます」と言われました。それだけでしたが、同時に頭をちょっと下げた彼の動作と表情には、長い文章以上の表現力が感じられました。
オランダの友人たち、同僚、そして役所職員たちは、わたしたちが自慢気に見せる本にびっくりするばかりでした。ページを埋め尽くす日本語の文字、そしてその合間に印刷された写真の数々・・。そしてすぐさま尋ねるのです。「へぇーっ、それでいつオランダ語版がでるの?そしたらわたしも読むわよ」
オランダ在住の蘭印系の人たちに対しては、わたしたちは今でも慎重な態度で接しています。日本軍収容所に入れられていた時代の体験がトラウマになっている人たちもまだかなりいますので、日本に関する話題でその人たちを傷つけたくないからです。わたしの居住地スパイケニッセで、わたしは他のボランティアの仲間とともに月一回、蘭印系の人たちを集めてお楽しみ会を開いています。その場でも、わたしは日本人のハーフとして気を使うことが多いです。それでもたまには、わたしのところに寄って来る人もいます。そして日本軍占領時代に覚えた日本語の歌や単語を口にしたり、「中には優しい日本人もいて、わたしたちには暴力を振るわないどころか、クッキーやくだものをくれたのよ」と思い出を語ってもくれます。
オランダ人の話はともかくとして、この「わたしは誰の子?」は日本人の読者を対象に書かれています。その日本人のみなさんに、わたしたちはこの本を通じて、憎悪の感情抜きで次のことを伝えたいのです:自分たちは誰なのか、どのようにして生まれてきたのか、どのように生きてきたのか、どういう活動をしているのか、互いにどう助け合っているか、そして日本人のアイデンティティについて知りたい気持ちがどれほどあるか、ということを。かつてわたしたちの多くが、“自分たちには存在する権利がないのだ、「間違いを犯した親たち」から不運な瞬間に産み落とされてしまったのだ”と思い込んでいた時代がありました。その後長い年月を経た今、わたしたちは自分たちがどのような人間なのかが理解できるようになりました。そしてさらに重要なのは、わたしたちのなかに確信が生まれたことです。自分たちが存在していてもよいのだという確信、そしてこのわたしたちがいること自体が他の人にとって、ひいては人類全体にとって何らかの意味をもたらすのだという確信です。
この確信のもと、この本とわたしたちの経験が、これからの歴史と日蘭対話の助長に貢献できることを願って止みません。
ご清聴ありがとうございました。
クラウディーネ・マサコ・メイヤー
今は9月下旬です。初版2000冊の発売開始以降、約10ヶ月が経ちました。出版社・梨の木舎の羽田ゆみ子代表によれば、この手の本は普通1000冊から1500冊を初版とするのだそうです。しかし本書については、テーマの日系二世に関するものは他に例を見ないもので、かつ読者にとって読みやすく優しい書体になっているということが理由で、印刷部数を多めにしたとのことでした。
先月8月末までの売上部数は1050冊。この数字をみなさんはどのように受け止められるか分かりませんが、わたしたちは決して悪くない売れ行きだと思っています。もちろん完売が最終目的ですから、これからも口コミなどで本書の紹介を続けていきたいと思っています。
この目的を達成するためにこの場に何冊かの本を持ってまいりました。まだお読みになっていない方、オランダ人で日本人の友人にこの本をお贈りしたい方などがいらっしゃいましたら、本日昼食時にお買い求めくださいますよう、ご案内申し上げます。なお売上金は本日の集会の主催グループ「日蘭対話の会」と財団櫻に寄付されますので、ご協力のほどをお願いいたします。
1.本書をもっと知ってもらうこと
わたしたちは日本とオランダの両国で、この本の存在をもっと広めていきたいと思っております。わたし自身はこれからも知人たちへの宣伝を続けていくつもりです。みなさまも、興味を持っておられそうな方をご存知でしたら、どうぞこの本のことをご紹介ください。友人・知人を通じての口コミはマスコミと同じほどの効果があると言われますので、どうぞご協力を!
2.オランダ語版の出版
すでに幾人もの人たちが本書のオランダ語版ができることを期待してくださっています。蘭訳は興味を持ってくださっている方たちのためだけでなく、実は主人公たちとその仲間のために必ず実現されなければならない課題です。何を隠そう、この主人公たちは日本語を知らないために、自分たちのことが一体全体どういうふうに描写されているのか、今のところぼんやりとしか解かっていないのです。それをそのまま放っておくわけにはいかないでしょう。
わたしたちは遅くとも数年後にはみなさまにオランダ語版「Vader,wie ben je?」をご紹介できるよう、努力したいと思っております。
この本の主人公のみなさん、そしてこに登場しなかったたくさんの方々、みなさんの悲しい経験を、遅ればせながら、ほんの少しではあれ知りえたことは、僕にとってはひとつにはとってもつらいことであり、悲しいことでした。でも皆さんがそれだけの経験を乗り越えられて日本人の我々と手を取り合ってくださることは、何にも変えがたい貴重な喜びです。辛い経験をしながらも日本とつながりのあることを誇らしく思ってくれるあなたたちの姿を見ると、人間の強さ、愛の限りない大きさを感じます。世界中がいやな方向へどんどん舵を切っていくような流れの中で、それこそが流れを変えうる最大の可能性なのだということを改めて感じました。皆さんの存在は私達にとっても大きな誇りです。
いつの日か、日本に来られることがあったら、また是非どこかでお会いしたいと思います。
ご一読いただき、ありがとうございました。
綿貫葉子(葉子・ハュス-綿貫)、財団櫻一同
ヒデコ・ヒースケ―エーレントライヒ ( 訳:リヒテルズ安元直子)
A)
ご参会の皆様
まずはじめに村岡教授に今日ここでこのような機会を与えてくださり私どものヴィデオフィルムをご披露させていただく機会を下さったことに対して感謝の言葉を述べさせていただきます。また、日本人を父としてインドネシアで生まれた子供についての本が葉子さんによって書かれ、日本語で出版の運びになったことはすばらしいことです。葉子さん、お目出度うございます。
はじめに、私自身についてと、10年間にわたってすばらしい仕事をなさったバウケ・ターレンスさんがおやめになった後、2005年に、私が代表職を引き継いできました財団法人「人(じん)」についてお話させていただきたいと思います。
私はだれか
私の名前はヒデコと申します。1945年6月にスラバヤで生まれました。私の名前は父ヒデオに因んだものです。私は7歳のときにすでに父と交信するようになりました。わたしの母は小さい頃からこの父について愛情を持って話を聞かせてくれていました。私にはオランダ人の優しい継父がいました。私の母が隠し事を持たない人で、何事にも前向きの態度をとる人であったことを本当によかったと思っています。こういう母に対して私は本当に感謝しています。
1978年、私は始めて日本を訪れ父に会いました。当時私は33歳でした。私の夫と私は8歳になる私たちの息子に、日本を、そしてまた、息子にとっての日本の祖父を識ってもらいたい、と思いました。その後私の息子が学業を終えたときにも、彼はもう一度ひとりで日本を訪れ、おじいちゃんのところに泊まっています。
1983年、私は、私と同じ背景を持っている人チェリーと出会いました。彼女は日本に住んでいました。私は私の母から私たちのような子供たちがたくさんいるということを聞いていましたが、まだその人たちのことを識らなかったのです。その人たちはいったいどこにいたのでしょうか? 私たちはほかの日本人の子供たちを捜し始めました。「日本人のルーツ」という題の下に私たちは広告を出しました。
協会「人」
何人かの同じような背景を持つ人たちが「日本人のルーツ」という広告に応じて名乗りを上げてくれました。そして、1991年に私たちは協会「人」を立ち上げました。そうしているうちに、私は、オランダに住んでいる、日本人の多くの子供たちがたくさんの辛酸をなめてきているということを知るようになりました。
私は1991年以来およそ16年にわたって「人」で活動をしてきました。どうしてか、ってですか? 私たちは「人」という協会を作って活動することで、お互いにたくさんのことをして助け合っていくことができるという気持ちが、この協会で活発に活動する気持ちを起こさせてきたのだと思います。そうして、私たちはまた、一緒にそうやって助け合っていけるように努力し続けなくてはならないのだ、とも思ったからです。
振り返ってみて
16年の間に何ができたか?
日本訪問
「人」の会員で第一世代の人たちのほとんどは1997年から2007年の間、つまりこの10年の間に、日本政府の資金で日本を訪れています。これについて私たちは、1997年に始めて16人のグループで日本を訪問しましたが、元EKNJ(元日本の捕虜とその末裔の会)財団のウィンクラーさんに感謝しなければなりません。
父親探し
1995年の秋、私は日本で大阪にある元軍人の会で、元軍人のウチヤマ・カオル氏に会いました。内山さんは私に、私たちを助けてあげられると言い、実際、今日のこの日にいたるまで、内山さんは私たちを助けてくださってきました。特に1996年から2002年の間、私は、内山さんとの間を取り持つ仲介人の立場にありました。すべての手紙やファックスは翻訳されねばなりませんでした。日本では、この仕事を、フランシスコ修道会のサレミンク神父とホルスティンク神父が、無報酬で引き受けてくれました。とても分厚いファイルが当時のことを証明しています。そうしてそれを通じて内山さんは「人」の会のたくさんのメンバーのために父親や家族を探し出してくださいました。1999年に「人」の会は感謝の気持ちをこめて内山さんをオランダにお招きしました。そしてその折に内山さんは名誉会員になられました。2005年内山さんは、永年にわたって日本人と蘭印の血を引く子孫のために働いたという理由で日本でFESCO(社会貢献奨励財団)賞を受賞されました。
日蘭文化センターの吉岡一家
1999年に私たちはアムステルダムでヨシオカノブオさんとマサコさんご夫妻と知り合いになりました。私の息子はその頃アムステルダムでヨシオカさんのご主人から日本語を習っていて、今はJNCCの執行部の役員になっています。けれどももっと重要なのは、吉岡さんが、彼等の日蘭文化センターとともに、日本人と蘭印の血を引く子孫のためのすばらしい友となり支えとなってくださったことです。「人」が関係者の友好のために会を開くときにセンターの方たちは日本文化を私たちに伝えてくださっています。
8月15日の慰霊
最後に私はもうひとつ重要なことをお伝えしたいと思います。今年の8月15日の慰霊の日に日本・蘭印子孫の協会は慰霊財団の招きを受けて花輪をささげてきました。日本人の子供たちとして私たちはこういう機会が与えられたことをとても意味のあることと思っています。なぜなら私たちもすべての戦争犠牲者に対して慰霊の気持ちを表したいと思っているからです。私たちは1997年以来日本でも毎年水巻町と長崎市で同じことを行っています。それと同時に私たちは、私たちが戦争を通じてここに存在するようになったということ、また、私たちは、日本の良さを子供たちや孫たちに伝えていきたいと思っているということも自覚しています。
けれどもそうすることができるためには、私たちのうちのたくさんの人たちが乗り越えなくてはならなかったことがたくさんありました。それを、これからご披露するマーセル・レインストのヴィデオの中でごらんいただけると思います。マーセルはオランダと日本のテレビで放映された「人」の会員とのインタビューを編集しています。ヴィデオは30分間にまとまるように短く編集しなおされています。
ご傾聴ありがとうございました。
B)
DVDフィルム:オランダと日本のテレビで放映された「人」の会員へのインタビューを編集したもの。2006年に「人」の会の15周年記念の折に「人」の会の会員マーセル・レインストが作成。
「真白き富士の」、ヒデコと「人」のある母親が日本の古い歌を歌う。「人」は1991年2月1日に設立。この協会は、チェリー・ランデヘントとヒデコ・ヒースケ−エレントライヒのイニシアチブによって「日本人のルーツ」というコンタクトグループから生まれたものである。
このプレゼンテーションは、過去に放映されたいくつかのテレビ番組を編集したものである。したがって、まずはじめに、これらのプログラムを作ってくれた放送局の方々に感謝の気持ちを述べたい。また、御自分で撮影されたもの、テープや種々の写真を私に送ってこのフィルムの作成を助けてくださったすべての方々にも感謝の言葉を述べる。
それからこの収集された画像の発表によって、私が誰一人として傷つくことがないことを願っていることを申し伝えたい。ここに示されるのは過去の古い映像や語られた言葉である。私は、ここにお集まりの皆さんがそれを美しいものとして認め、当然のことだが、視聴の楽しみを味わっていただけたら、と思う。マーセル・レインスト
戦争中の飛行機の像とそれに続く占領の様子
解説者:これは戦争の始まりと蘭印の終焉を意味していました。日本人の占領者は非常に残忍で、白人の共同社会も現地の人々の共同社会も日本人によって容赦されることはありませんでした。男たちは強制労働に狩り出され、女たちは後に残されました。(捕虜収容所の映像)女たちの中には日本の軍人や日本の官吏と関係を持つものもいました。
ロン・ヒルハース(少年の写真)
いろいろ考えてみますと、私の最初の思い出は私が5歳だったときのことにさかのぼっていきます。私は、戦争の直後、まだ、戦争の傷が開いたままで、私自身、しょっちゅうヤップの子供といってさげすみの言葉を浴びせられていたそういう社会に生きていました。私はそれに抗することができません。家でも私には背後から守ってくれる人はだれもいませんでした。私の実の(日本人の)父は、日本の顧客を主に相手にし織物を売っている店で働いていました。私の母はその店に働きに行き、私の実の父親と出会い、そうして関係を持つようになったのです。母は、まず日本語の勉強をさせられましたが、その時既に妊娠していました。戦争が終わったとき、私の父は収容所に入れられました。私が生まれた日に、私の叔父が父を収容所に迎えに行き、父を私の母のところまで連れてきて私に合わせました。父は私を抱いたといいます。このことは私にとってとても重要なことでした。父はそれからまた収容所に連れ帰され、そこから父は日本に行ってしまいました。
解説者:自転車に乗った日本の兵士たちの写真
アジアの戦争が現実のものとなったとき、1万人の軍隊が蘭印にやってきました。その中には日本軍のために働いていた経済学者たちもいました。オランダの被征服者たちはたくさんの日本軍の収容所に収容されました。戦争が進むうちに、蘭印系ヨーロッパ人たちの何人かも収容されるようになります。日本の収容所での悲惨は日本人と蘭印の血を受けた子供たちの罪悪感の基礎をなしています。この人たちの素性が、日本人の占領者によってもたらされた苦悩に対して自分達にも一部責任があるような気持ちにさせるのです。(女性たちの写真)
蘭印系ヨーロッパ人のグループの中でも日本の軍人との関係を持つものが現れるようになりました。こうした関係の中から生まれてきた子供たち、つまり、日本と蘭印の血をくむ子供たちはいまや敵の子供たちでもあったのです。
J.ファン・デル・フェットさん
あそこで私は私の子供たち(2人)の父親と知り合いになりました。そこでの生活は決して容易なものではありませんでした。なぜなら一人暮らしの女に対しては、特に戦時中、だれもがどんなチャンスでもつかもうとしていたからです。私にはありとあらゆるいやな電話がかかってきました。そして、私の上司(後に私の子供たちの父となる人)が私のところにきて事務所で働いたほうがいいのではないか、と言いました。私は働いてお金を稼がなくてはならなかったので、そのときそこに行って働きました。ひとつ事が起これば次にまた何かが起こるものです。上司は私に恋をし、私も彼に恋をしてしまいました。そういう風にことが起こっていったのです。
ヨアン・ファン・デル・フェット
私はとても長い間彼女に何も尋ねませんでした。12歳になったとき、私は彼女が日本人の兵士と関係を持っていたということを聞きました。私と妹のウェンディはその関係の落とし子だということも。
ヨアンの母親
私はそのとき働きに出ようと思い、仕事を探しましたが、なかなかうまくいきませんでした。なぜなら、私が日本人の子供を持っていると知れると解雇され、その上「ああ、ああでもないこうでもない、とね、お前は日本人の子供を持っているんだろう」と言われたからです。
ヨアン
私は、第二次世界大戦に関して自分なりの意見を持ってはいけないようなことになったのです。なにか私が悪者であるみたいに。戦争中苦労した人たちの前に出てはいけないのではないのか、私はあの時、生まれて来てはいけなかったのではないのか、というような気がなんとなくして来るのです。(感情が高ぶる)
トン・フーケの画像
彼の妻のマルヤの声:「幼少のころのことのために、過去のために、インドネシアで捕虜収容所に収容されていたすべての人たちに対する罪悪意識のために、だれかが、日本人の子としてこれほどまでに苦しんでいるのを見ることはとてもいやなことでした。彼がそれほどにも持っていたのはこの罪悪意識だったのです。」
ヨアン:やっと最後に私は赤十字を通じてある神父から私の父は6月10日ジャワから日本に返されたということを知らされました。
日本のテレビのインタビュー:(通訳):今年の1月5日に私たちは赤十字にファックスを送り、私たちは確かにミヤモトさんは1992年の4月11日にお亡くなりになっているということを知った、と知らせました。(ヨアンはこのことをはじめて聞き泣く)。また調べてみたところによるとミヤモト・トミサブローさんには一人のお嬢さんがありましたが、そのことでいろいろな問題があり、このお嬢さんには会うことはできないということがわかりました。(ヨアン、オーケー、残念だけど)
ヨアンの母:ある手紙を見せる 神戸 1948年10月25日付。彼女は父親と手紙のやり取りをしていた。しかしあるときから音信不通となる。1948年に書かれた手紙を見せる。
フレーダ・レインダース(フレーダと母親の写真)
リポーター:フレーダの人生は彼女のまだ知らない日本の父親探しですっかり塗りつぶされています。彼女の母親はそれについて決して語ることがありませんでした。彼女がこのことを始めて知ったのは9歳のときでした。
フレーダ
その頃、私はしばしばひねくれていました。その頃私はこう思ったものです「もしも私の母が何も話したがらないのだったら、私は自分で父親を探し出して見せる。なぜなら私は人間としての彼を知らなかったから。たぶん何か暖かいものを求めていたのでしょう、そうして私たちは赤十字や日本大使館を通じて父親を探しました。しかし求めに対して答えはいつも皆無でした。そうするうちに夫と知り合いになりました。夫はその頃船乗りとして日本に行っていたのです。そこで私はこういいました。「日本で探してみて、向こうに行ったら少しは簡単に探せるかもしれないわ」。わたしたちは古い手紙に書いてあった名前と住所をもっていました。私の夫は日本で試みて見ましたが、それもうまくいきませんでした。
フレーダの父親
私は小さな仕事を持ってはいましたが何もかも初めからやり直しをせねばならず、自分ひとりを養っていくにも足りないほどの稼ぎしかありませんでした。そんなにわずかの収入で家族全員を養っていくことなど不可能でした。日本で別の人との結婚を決めたとき、私は過去も葬ってしまうことにしました。過去は過ぎたこと、新しい人生にチャンスを与えてやらなくてはなりませんでした。
解説者:数年前フレーダの母親はなくなり、それによって彼女は今このことについてオープンに話をすることができるようになりました。そして、そういう人は彼女一人ではありません。
1944年にジョージはバンドンで生まれました(赤ん坊の写真)。彼は大家族の長子でした(10代の頃のジョージの写真)。彼が31歳のときに始めて彼には日本人の父親があったということを知らされます。
ジョージ・デ・ウィンター:
その瞬間から悲惨が始まりました。それがいつまで続いたのでしょうか、今日の日まで。出生証明書を手にして、ジョージは父親探しを始めました。彼の奥さんと一緒に、ジョージは赤十字や日本大使館を通して探しましたが、どれもこれも無駄でした。女王様にまでも手紙を出しましたが、それも役に立ちませんでした。ジョージはこのことでいまだにたくさんの問題を抱えています。昨年の秋に日本と蘭印の血を引く子供たちについて新聞にたくさんの記事が掲載されました。(1991年のベアトリクス女王の天皇訪問の写真)
予想していなかった結果に驚くフレーダの写真
フレーダ:私は一枚の写真と父が(スキポールに)いつ着くかを知らせる手紙を受け取りました。そこに入っていた写真を見て、私は、父がどんな顔かたちの人かを知りました。父は私が思うに80歳くらいの人で、彼が探しているのは、実は小さな少女なのです。
ジャーナリスト:あなたのお父さんがどれくらいの期間ここに滞在されるかご存知ですか?
手紙には彼は6日間と書いていますが、私は、もっと延期できないかと尋ねています。私は電話で「私はあなたを46年間も待っていたのですよ。6日間なんてあまりにも短すぎます(泣く)」
JAL機の写真:1991年12月20日フレーダの父が到着する。赤いジャケットを着たフレーダと家族。彼女の父親が登山帽をかぶって現れる。
ジャーナリスト:夕方アルメローの自宅に戻ったら本当にお互いを知り合う時間が始まるのですね。
フレーダは父親とともに長椅子に座っている:私は本当に幸せだわ!
ジョージ・デ・ウィンター
日本のテレビの女性アナウンサーが日本語で伝える
ジョージ・デ・ウィンターさんと奥さんとお嬢さんが、ジョージさんのお父さんのお墓を訪れたときの報告です。ジョージさんのお父さんは85歳でお亡くなりになりました。ジョージさんは日本人の弟さんと会います。小さかった頃のジョージとお母さんの写真を見てお父さんの友人が思い出したのです。お父さんのお友達だったヤノさんのおかげで、家族を見つけることができました。
ジョージ:ちょっと心細かったです。私は自分の感情をどう処理したものかわからなかった、それと戦いながら準備していました。私は自分自身のことが心配だったのです。それなのに自分の別の面を知りたいと思っていた。自分自身のルーツを探していたのです。
ジョージの弟(日本語):今私は彼と出会って自分のことを父親代わりのように感じています。できる限りのことをして助けてあげる責任がある、という風に。
ジョージ:自分の日本人としての出自について私が過去何十年も考えてきたことが今ひっくり返ってしまいました。
矢野さん、ジョージの父親の友人は墓に向かってこう語った:今日私たちはあなたの墓の前に立っていますよ。オランダから来た3人の方はあなたに会うために特別にやってきたのだよ。来てくださったことを喜ぼうじゃあないか。
何人かの会員が大使館の父親探し申込書を見せている写真
バウケ・ターレンス
私の母親が私たちの状況について語るのに罪悪感を持たなくてはならないとは私も思いません。母はあの時代にとても多くのよいことをしているし、それについて私には一切やましい気持ちはありませんし、だれでも直視することができます。私は1993年5月5日に、「私の最愛なる息子バウケよ」という書き出しで始まる手紙をもらいました。それは私にとってかなりの衝撃だったのですが、私はそれとどうかかわったらいいのか分からず、一度はその父をたずねてみたいと思っていたのですが、まだいつのことになるのかわからずにいました。この問題は今暫く寝かしておこうか、と思ったのですが、それに対して私の妻は「あなたのお父さんはもうとても年をとっているのだから、できるだけ早く行ってあげなさい」と言いました。いっしょについて来た私の長女はお辞儀で挨拶を受け、抱擁された時、そんな感情があるはずはない、と思っていたのに、それが少し出て来ました。「これがお父さんだ」という感情が確かにあったのです。(バウケと彼の父親がバスの停留所のベンチに座っている写真)
バウケ:これが私の父親です。(父はまだ息子と距離を置こうとする。なぜならあまりにも感情が先立ってしまうので)
あれから3年間彼とはコンタクトを取っていません。休暇の後、私は日本から私の父親と私の弟が写った写真の入った手紙を受け取りました。弟がいることは知っていましたが顔を見たことはありませんでした。これから一緒に父親の墓に行きます(写真)。
チェリー・ランデヘント:チェリーの母親の墓の写真が日本のテレビに映る
日本のテレビ:母親のデイジーさんと父親のヒロシ・オシイさんです。チェリーさんとサレミンク神父そして日本のジャーナリスト。
チェリー:写真を見せながら:私の息子は私の父親に似ています。チェリー(=玲子)が彼女の日本人の継父の長男である義理の弟タカシに会う。チェリーの父親の墓を訪れる。チェリーがみなに感謝の言葉を述べる。
ニッピー・ノヤとウィル・ブラーウがハーグにある日本庭園を散策している
ウィル・ブラーウ
解説者:ウィル・ブラーウさんは日本のお父さんを探しています。彼女が、ついにオランダ人と結婚をしたお母さんと一緒にオランダに来たのは7歳のときでした。13歳のときに、彼女はお母さんから彼女の実のお父さんが日本人だったということを聞きます。
ウィル:これは私の3人の親たちです。これが私のオランダ人のお父さんで、私が知っている唯一の父親です。私の母、そして、まだ一度も会ったことがない私の日本の父親。珍しいことに、私は、私の弟や妹とは顔かたちが違っていて、だから、私はいつも、私は中国人の祖母に似ているのだ、と言っていました。
ニッピー・ノヤ
私はよく旅をします。私は遊牧民なんです。でも、一匹狼なのです。それは私がもらったとても大きな印のようなものです。アムステルダムにあるヨシオカ夫妻の日本文化センターでニッピーはコンガを奏でている。
広島にいる私の弟は、私の父は日曜日ごとに相撲取りのまわしをつけて頭には鉢巻をしてとても大きな大根を使って音を鳴らしていた、と言いました。そのときになぞが解けたのです。私はいつもどうして私はコンガを演奏するのだろう、と思っていましたから。
解説者:アムステルダムの日本文化センターは定期的に日本と蘭印の血を引く子供たちのために会合を開いています。この人たちにとって、そこはルーツ探しの重要な場所であり、お互いにルーツ探しをしながら支えあうための場所なのです。協会「人」を通して、オランダでは、まだ、9人の「人」のメンバーが父親を探しています。
ヨシオカ夫人が日本語で(すでにオランダ語に訳されている):この方たちにとって日本はお父さんがやってきた国なのです。これは私たちが日本の文化を知らせるための日本・オランダ文化センターです。これは若い方にとってはあまり意味のないことかもしれませんが、年をとるにつれて次第に重要になってくるのです。自分は一方では蘭印出身のオランダ人であるのですが、他方では日本人でもある。日本人の魂が目覚め始めるのです。日本の雰囲気、文化、父親のルーツに敏感になるのです。私はそういうことなのだろう、と思います。
ニッピーが音楽を奏でる
解説者:JINという文字はJapans(日本)Indische(蘭印)のNakomelingen(血を受けた子供たち)をあらわしています。これは、日本人の父親と、オランダ人・蘭印の母親をもつ子供たちの組織です。1990年から95年ごろ、この会の会員の方たちはEKNJという財団を通じて日本への旅行をしました。水巻の委員会の代表黒河さんが2004年にオランダを訪問されています。黒河さんと一緒に、ベルト・ヒースベルスさんの日本の「里親」も一緒に来られました。
ベルト・ヒースベルス(幼児のときの写真)
ジャカルタに生まれる。3歳のときに、母親と彼の夫とともにオランダにやって来ました。
私の日本の父親が私を拒絶したとき、私の里親になる人がいてくれました。この里親は、私が日本を嫌いにならないように配慮してくれたのです。彼は私を本当に助けてくれました。
御協力下さった方々
誰にも失礼に当たることがないようにと思いつつ、私は特に次の方たちに、写真やフィルムを使わせていただくことを許可してくださったことについて感謝の辞を述べたい。
バウケ・ターレンスと彼のお父さん
ベルト・ヒースベルストとナカムラ・ユキオ氏
チェリー・ランデヘント
オオツカ・チエコ(翻訳者)
フレーダ・レインダースとサトウ・カズオ氏
ジョージ・デ・ウィンター
ヨアン・ヴァン・デル・フェットとヴァン・デル・フェット・シニアさん
ニッピー・ノヤ
サレミンク神父
そしてそのほか私が名を上げることを忘れてしまったすべての方たち
この映画は協会「人」の協力によって完成された
著作権:協会「人」
L.モヴィヒースフレイネン (訳: 村岡崇光)
今日このようにしてお話をさせていただき有り難うございます。リディ・モーヴィッヒと申します。生まれたのはジャワ島西部のスカブミです。東南アジアにおける第二次世界大戦客員教員財団の会員として私が授業をさせてもらっている理由は、東南アジアでなにが起こったかについて世間の人がもっているイメージに問題を感じ、また歴史の授業内容が不十分ではないか、と感じているからです。主人のジャックと私は、どういう系列の学校であれ、関心のあるところには出かけて行って教えさせてもらっています。
私は、両親と4人の姉妹と、西ジャワのワインコープス湾にあった、父の経営する会社の敷地に住んでいました。
父は、最初はキニーネ事業に関係していて、その報告書を読んだ記憶があります。ここで栽培されていたキニーネは熱病やいろいろな熱帯性の病気に効く薬品の原料として世界的に重要視されていたようです。その後、父はコーヒー、茶、ゴムなどの事業にも関係しました。
最後には自宅に薬局を開きました。医者は近所にはいませんでしたので、応急処置ぐらいはできたわけです。
私は自宅で母から教えてもらい、姉たちは寄宿学校に行きました。この寄宿学校と同じく、大多数の学校は多人種主義をとっていました。また、看護婦とか、教育関係者のオランダ人もいました。義父は裁判官、義母は医者でした。
インドネシア人の指導者が来た時は靴を脱いで、お辞儀をしなければなりませんでした。
広々とした自然環境の中での私たちの生活に終止符が打たれた時私は8歳でした。戦争になったことがラジオのニュースで伝えられました。漁師、写真屋、床屋などをしていた日本人たちは土地とそこの住民のことを熟知していました。バンタムに18年住み、いくつものモスクを寄付した日本人もいました。バリクパパン出身で、油売りは一人残らず識っていた氷屋がいましたが、開戦と同時に、日本軍将校として戻って来ました。またチャンジュール出身の店員、ガルーツの車の修理屋はそれぞれ蘭印降伏後、大佐並びに軍政官になりました。真珠湾攻撃後、オランダが最初の連合国として日本に宣戦布告してから、インドネシア全土を占領するのに日本はたったの3ヶ月しか必要としませんでした。
逃げるのも楽ではありませんでした。オーストラリアに辿り着いた人たちもいましたが、多くは途中で死亡したり、捕まって抑留所に入れられました。本国政府からは「自国の者同士かたまっているように」との命令が来ました。私の両親はこれに賛成で、残ることにしました。
経済は戦時体制になりました。経済は悪化の一途を辿り、住民たちはひどい物資不足に悩まされ、餓死もそこまで来ていました。白人の血が何%混じっているかによって登録させられ、抑留所に入れられました。収容所は相当数にのぼり、設備もまちまちで、街の一角が仕切られたり、兵舎、刑務所、その他ありとあらゆる建物が活用されました。男子は別に抑留され、後からは男の子も成人男子の抑留所に入れられました。日本式に数えで10歳からです。こうして家族バラバラになりました。これが今生の最後の別離になった人たちも少なくありませんでした。こういう状態がいつまで続くのか誰にも分からず、私たちは世界から忘れ去れてしまったように思えました。
インドネシア人達は、日本人は彼等を解放するために来たのであり、オランダ人は悪者である、と聞かされました。これは1943年に日本軍のある将校が東京へ送った次のような報告とは矛盾します。
「和蘭の蘭印搾取は実に巧妙であって。。。和蘭の科学技術力によって交通、土木、衛生施設を普及し、特に科学的灌漑によって山岳地方にまで米産の自給を計ってやっている。気象に恵まれている蘭印はこれに科学施設を与えてやれば、食料生活は十分できる。住民も和蘭統治下にその日その日の生を楽しんでいた。ジャワの如きは日本の本州より小さい面積を有する山岳多き島嶼でありながら五千万の人口に増殖されている。
和蘭人は原住民インドネシア人を実によく愛撫している。僅か二十万の和蘭人が蘭印六千万の原住民を統治するのである。一対三百の比率である。尋常の統治では行かない。。。。愛撫し、生活に事欠かぬよう自給も支持してやる。一方は一流の科学力を和蘭人の手によって展開して住民の福利を計り、衣食住を満たし、その結果が天上楽土となって世界一の稠密人口となったのである。」(大日本帝国陸軍中将・工博・多田禮吉)[『中央公論』昭和18年5月号より]
私がこの報告書の一部をここに引用しましたのは、オランダによる植民政策は恐怖と搾取、破壊をこととしていたかのようなことを言う人がよくあるからです。あるインドネシア人の老人が私たちにかつて言ったのですが、300年間のオランダ植民時代にはいろいろな失策もあったでしょうが、日本による3年間の占領にくらべればそれほどひどくはなかった、というのです。
抑留所では食料は日に日に欠乏して行きました。蛋白の補給のためになめくじや蛙を捕まえたりしましたが、残念ながら肉はあまりついていませんでした。米の分配には最大限の注意を払い、スープをつぐ時は誰のにも一切れは野菜が入っているように気をつけました。タピオカから作ったお粥や白味がかったパンも食べました。私たちは、トラックや汽車で何度か引っ越しましたが、毎回場所は狭くなって行きました。労働としては、畑に出て仕事をしたり、日本人の豚の世話、菜園の仕事等がありました。台所で働くと役得もありました。母は動物の胃袋を洗う仕事をしばらくしましたが、その一切れがスープに入っていたりしました。姉たちは運搬の仕事をし、あとからは棺を作りました。私にはその意味がよく分かりませんでした。チデンにいたときは死んだ人は皆共同墓地に埋葬されたはずだったからです。
私は、8歳の他の子供達と、朝7時の点呼の前に通りを清掃しました。どなられ、人数を数えられるあの点呼の時はいつもびくびくしました。「キオツケ、ケイレイ、ナオレ」少しでも間違えると、叩かれました。焼け付くような太陽の下で私は一度倒れたことがありましたが、だれかがすぐ私を立たせてくれました。恐い日本人の所長の眼がそれたらまた座らせてくれました。勉強は禁じられていましたから、こっそりやりました。
気候と労働のせいで着ているものはたちまちぼろぼろになりました。それに私たちは育ち盛りでした。着るものが不足した時、姉たちは布巾で間に合わせたりしました。私の姉たちは慰安婦には徴用されませんでした。まだ小さすぎたからでしょう。私の友達の一人は、日本人が慰安婦狩りに来た時、とても気分がすぐれず、見た目にも病人のようだったために難を免れました。
私たちの知り合いの男の子は9歳の時に医学的な実験に使われることになりましたが、丁度折よく日本人の看守に助けられました。彼はそれがために命を落とすことになりました。
どういう罰を受けるかは抑留所の所長次第でした。そういう役をさせられた日本人は日本人としてもどうか、と思われるような人たちだったようです。原住民とこっそり衣類と食料とを交換して発覚すると坊主刈りにされました。見つかった原住民の方も厳しく処罰され、死刑ということもありました。一日中外に立たされるとか、数日絶食とかいう集団処罰もありました。
処罰のほかに、侮辱や嫌がらせもされました。たとえば、チデンにいたとき、車でパンが届きましたが、中身を地面に埋めるように命令されたことがあります。夕方、男の子が掘り出そうとしたところ、射殺されました。男子の抑留所では甘蔗を料理させておきながら、それを食べてはいけない、と言われました。三日後、食べてもよい、と言われたのですが、沢山の人が病気になりました。熱帯では食べ物は長もちしないのです。
欧米人の他に、労務者としてインドネシア人も狩り出され、パカンバルや泰緬鉄道建設に従事させられ、奴隷並みに扱われました。スカルノは日本政府と協力し、本土の工場や鉱山用の労働者を提供しました。労務者は賃金は貰いませんでした。傭兵である兵補には給料が出ました。
私たちを長いこと生き延びさせてくれた母でしたが、栄養失調から来るかなり重度の水腫に罹りました。抑留所の外には赤十字が届けて来た薬品が積んでありました。しかし、私たちが生き延びることには日本人たちは特別の関心をもっていませんでした。母は、抑留所が解放される暫く前に亡くなりました。私も同じ病気に罹っていて、何ごとに対しても反応しなくなっていましたから、母の死の意味がそのときはよく分かりませんでした。自分の周囲にいる人たちが死んで行くのは日常茶飯のことになっていました。私たちの抑留所では毎日十人以上死んでいきました。みんな抑留所の外に埋葬されました。後で分かったのですが、ドイツにならって、生き残ったものはすべて処分するつもりだったそうで、具体的にどういう形で処分するかはそれぞれの所長の一存だったらしいのです。広島と長崎に落とされた原爆は、余りにも多くの、罪のない犠牲者を生みましたが(この武器が将来また使われることは決してあってはなりません)、その結果としてさらに多くの犠牲者を出したに違いない戦争は終わりました。また、抑留所で生き残ったものを処分せよとの命令も実施されずに終わりました。こうして私たちは生き長らえられたのですが、このことを思うと、できることなら直面することを避けたくなるような悲しい、倫理的ディレンマが生じます。
父は、当時のバタビア(現:ジャカルタ)の病院にいた私たちをやっとのことで探し出しました。長女に出会った時、子供たちの居場所を尋ねたそうですから、彼女の顔を忘れていたみたいです。配給された白い上着は牧師用のものでしたから、見た感じが奇妙でした。父は、他の親たちと協力して、孤児達の祖国への旅行の世話をしました。インドネシア独立戦争が始まっていましたから、これは危険な仕事でした。輸送の途中に攻撃され、私たちに対して激しく抵抗する現地の若者たちによって命を落としました。私たちを載せた満員のニウアムステルダム号はポートサイードに寄港し、そこで衣類の給付を受けて、英国のサウザンプトンに到着しました。航海中、子供達の間に各種の病気が発生しました。栄養失調のため、戦前の予防注射はあまり効かなかったのです。サウザンプトンで私たちはアルマンゾラ号に乗り換え、アムステルダムに辿り着きました。ドイツとの戦いを経た戦後のオランダでは私たちの帰国は特別の関心を呼ぶことはなく、何年も経ってからやっと私たちの体験談に耳を傾けてもらえるようになりました。
栄養失調のため、私たちは頭髪もほとんど残っていませんでした。おかげで、皆から見下されることになりました。私の姉二人は若くして亡くなりました。長女にはショック療法も試みましたが、だめでした。
2000年に、主人と私は日本に旅し、私たちの体験を語りました。多くの人といい接触ができました。もっとも、一部の年長の男性たちの考え方には少なからず衝撃を受けました。ある教会の墓地に参った時、シベリアに抑留された経験のある何人かの日本人が「借りを払え」と書いたシャツを着て走り回っていたのに驚きました。政府に対して抗議していたのでしょう。
ある日、盆栽の説明をしてもらいましたが、日本の若者たちも盆栽の小さい木のように育てられるのでしょうか?
戦争とそれに続くオランダの政治家達の頑固さのお陰で、私の生まれた国とのつながりをもうすこし友好的に終えることができなかったのを残念に思います。
日蘭修交400年記念祝典はインドネシアの抑留所を生き延びた者の多くにとってはなかなかつらいものでした。